第1章 検品
頭が割れるような痛みの中、夏川紅蓮はふいに下腹部へ何かが入り込んでくる感触に気づいた。
氷みたいに冷たい瞳が、ぱっと見開かれる。目の前には中年女が二人。片方は彼女のズボンを引き下ろし、もう片方は脚をこじ開けながら手を股下へ伸ばそうとしていた。
「……死にたいの?」
夏川紅蓮は手を突っ込もうとしていた肥えた女を蹴り飛ばした。女は不意を突かれ、どさりと後ろへ転がる。
「いってぇ……! 痛くて死ぬ!」
もう一人も紅蓮のズボンどころではなくなり、慌てて手を止めて肥えた女を支えた。
夏川紅蓮は起き上がって二人を掴もうとしたが、手首が麻縄で背中の後ろにきつく縛り上げられているのに気づき、舌打ちする。
――くそ。ここはどこだ。私は養母の家で寝ていたはずなのに。
周囲を素早く見回す。古びた柴小屋。扉は固く閉ざされ、天井近くの小窓からわずかな光が差し込むだけだ。
支えられて起き上がった肥えた女が、紅蓮へ唾を吐き捨てた。
「ぺっ! アタシを突き飛ばすなんて、死にてぇのか!」
手を振り上げ、頬を張ろうとする。だがもう一人が慌ててその腕を掴んだ。
「60万の品だよ、殴って傷つけたらどうすんの! あの顔で倍稼ぐんだからさ!」
肥えた女はしぶしぶ手を引っ込め、怒りを噛み殺しながら吐き捨てる。
「あの量なら牛だって起きねぇのに、こんなに早く目ぇ覚ますとはね。まあいい、起きたなら自分で協力して“検品”しな」
夏川紅蓮は目を細めた。
「……検品?」
「60万の品だ。処女かどうか確かめねぇとな」
――なるほど。検品ってのは、私のことか。
笑わせる。こいつら、私が誰か分かってんの?
夏川紅蓮は帝都の闇市を束ねるボスだ。帝都の地下市場は、すべてが彼女の縄張り。
紅蓮は冷笑し、鋭い光を宿した瞳で二人を射抜く。背中で縄をほどく算段をしつつ、わざと時間を稼ぐように問い返した。
「60万? あんたたち、何者?」
養母が死にかけていると聞き、帝都から蛍の里へ飛んだ。ところが病状はただの風邪程度。翌日には帝都へ戻るつもりだったのに――目が覚めたらここで縛られていた。
肥えた女が紅蓮の片脚を掴み、鼻で笑う。
「高柳月代がお前を売ったんだよ。大人しくしてりゃ条件のいいとこに嫁がせてやる。逆らうなら、50か60の独りもんのジジイにでも――」
「……何ですって? 高柳月代が、私を……売った?」
あまりにも馬鹿げていて、紅蓮は本気で笑いそうになった。
三歳の頃、高柳月代に道端で拾われた。物心ついた頃から家の汚れ仕事も重労働も全部押しつけられた。
だから必死で力をつけた。十二で家を出る資金も手段も整え、その後は二度と帰らなかった。
それでも育てられた恩は忘れていない。毎月一日、必ず金を振り込んだ。その額はとっくに、一線都市の中心でマンションを三、四軒買えるほどに膨れ上がっていた。
今回は「重病だ」と聞いたから最後の顔を見に来ただけ。
なのに高柳月代は昔より凶悪で、60万で私を売り飛ばした――。
だから今回やけに優しかったのか。改心したと思った自分が愚かだった。
部下たちの忠告を聞くべきだった。江口家にまともな人間などいない。戻るべきじゃなかった。
頭を高速で回しながら、背中で縄をいじり続ける。あと少し――。
夏川紅蓮はわざと信じない顔を作った。
「嘘をつけ。私はいずれ江口沢に嫁ぐのよ」
「江口沢に?」女は可笑しそうに笑った。「何年も帰ってねぇから知らねぇんだろ。江口沢はもうすぐ大企業のお嬢様と結婚だよ。ベンツまで乗ってんのに、今さらお前なんか要るか?」
もう一人が紅蓮の足首をさらに強く掴み、乱暴に引いた。
「脚、開け! 処女かどうか見る。違ったら金の半分返してもらうからね」
「もがくなよ。うっかり破いたら苦しむのはお前だ」
夏川紅蓮がふっと口角を上げた。
「じゃあ、どっちが苦しむか――見せてあげる」
次の瞬間、縄がぷつりとほどけた。
紅蓮は肥えた女の喉を片手で掴み、そのまま軽々と持ち上げる。
「ぐっ……ぐぐ――!」
女は必死に暴れるが、紅蓮の指は外れない。酸素が途切れ、顔はみるみる赤紫へ変わり、唇は青黒くなった。
もう一人が助けに駆け寄ろうとしたが、紅蓮は迷いなく蹴り飛ばす。背中が壁に叩きつけられ、女は床へ落ちると同時に――
「ぶっ……!」
血を吐いた。
それでも女は痛みを無視し、外へ向かって叫ぶ。
「来て! 誰か来てぇ――!」
すぐに屈強な男が二人、棍棒を持って突入してくる。
振り上げられた棒が紅蓮へ襲いかかる。
夏川紅蓮は掴んでいた女を放り捨て、両手で落ちてくる棍棒を正確に受け止めた。
男たちが目を見張る。
――速い。
反応する間もなく、二人は紅蓮の蹴りで吹き飛び、床に転がって動かなくなった。
そのとき、投げ捨てられた肥えた女が音もなく背後から襲いかかってきた。
だが紅蓮は気配で察し、すばやく身を翻す。
――ガツン。
棍棒の一撃が女の頭を捉え、女はその場で崩れ落ちた。
十分後。
柴小屋は炎に包まれ、黒煙が空へ昇っていた。
夏川紅蓮は火の海となった柴小屋から歩み出る。ぎらつく陽光が目の奥をちくりと刺し、彼女は片手で目元を遮った。中からは悲鳴と助けを求める声。
だが紅蓮は一度も振り返らず、光に目が慣れると無表情のまま江口家へ向かった。
人さらいなんて、死んで当然。
そして次に死ぬのは――江口家の人間だ。
歩き出した先で、遠くから声が飛ぶ。
「火事だ!」
「消せ! 早く水を!」
村人たちがバケツを手に駆けてくる。
夏川紅蓮は中年女の上着を羽織り、頭を低くして歩いたため誰にも気づかれない。救火へ走る群れと逆方向ですれ違い、すっと通り抜ける。
ほどなく江口家に辿り着く。
紅蓮は容赦なく木戸を蹴り破った。
どんっ、と扉が倒れ、土埃が舞い上がる。
――だが、家の中に人影はない。すでにもぬけの殻だった。
「逃げ足だけは速いってわけね」
地の果てだろうが、必ず探し出す。
育ての恩はもう返し終えた。これからは復讐の番だ。
高柳月代も、江口沢も――どちらも許さない。
夏川紅蓮は顔を強張らせ、自分の部屋へ向かった。
――元は物置を改造しただけの、狭く息苦しい部屋。湿ったカビ臭が肌にまとわりつく。
案の定、持ってきた小袋も、枕の下に隠したスマホも消えていた。
袋に貴重品はない。身分証が一枚あるだけだ。
これでは戻るのが面倒になるが――構わない。町へ出て電話を借り、部下に迎えを出させればいい。
外へ出ようとしたとき、廊下の先から慌ただしい足音が迫ってきた。
夏川紅蓮は眉を寄せたが、すぐに気づかれない程度に口角を上げる。
――戻ってきたか。死にに。
左右を見回し、扉の裏に立てかけられていた鎌を掴む。
修羅のような気配を纏って外へ出た。
だが、玄関先でうろうろ覗き込んでいたのは江口家の人間ではない。
見たこともない、二十代半ばほどの若い男だった。
顔は乾いた泥で汚れ、髪もぼさぼさ。それでもスーツ姿。もっともスーツはぼろぼろで、背後には錆びた三輪車が停まっている。
夏川紅蓮は鎌を背中へ隠すように持ち替えた。
「……誰を探してる?」
彼女の足音があまりに静かだったのか、男は今になってようやくこちらに気づき、目を向けた。
次の瞬間。
母に六、七分似たその顔を見た男の目が見開かれ、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「ナナ……! 本当にお前か、ナナ!」
男は狂ったように駆け寄ってくる。
だが、紅蓮の手前半メートルで急停止した。
――夏川紅蓮が、鎌を彼の喉元へ向けていたからだ。
あと一歩でも踏み込めば、喉は裂ける。
