第3章 彼女は見捨てられたのではない
後頭部に鈍い痛みが残っていた。
夏川懐理はうなじをさすりながら、周囲を見回す。
自分の車の中だ。窓の外には見慣れた高層ビル群、遠くに海の塔。
――俺、海市に……戻ってきたのか?
村を出たところまでは覚えている。なのに、その先の記憶がぷつりと途切れていた。
そうだ、ナナ――!
ナナはどこだ?
懐理は首をひねって必死に探し、ようやく車外に夏川紅蓮の姿を見つけた。
紅蓮は、海藻みたいな髪の若い男と話している。
「ボス、検査結果が出ました」
「どうだった?」
「……ご自分で見たほうが」
海藻頭が鑑定書を差し出す。
紅蓮は眉を寄せ、受け取ると結論ページだけを開いた。
【甲および乙のDNAを分析した結果、甲と乙が兄妹関係であることを支持する。】
「……」
ぱたん、と鑑定書を閉じる。紅蓮の表情に、言葉にできない色が差した。
彼女はずっと、自分は孤児だと決めつけていた。
仮に孤児じゃなくても、捨てられたのだと思っていた。
だから探そうともしなかった。
捨てた人間を探す価値なんてない。
だが、真実は違った。胸の奥がざわつく。整理がつかない。
それでも――家族と一緒に生きる準備なんて、できていない。
慣れているのは、手下たちと過ごす日々のほうだ。
海藻頭は紅蓮の顔色をうかがい、慎重に尋ねる。
「夏川家へ戻ります? 調べたところ、ボス以外に息子が六人、養女が一人。家庭は少し複雑です」
紅蓮は鑑定書を男の手に押し返した。
「……どうであれ、一度は顔を出す」
海藻頭の顔がぱっと明るくなる。
「ちょうど今年、うちの本部を海市に移す予定です。ボスが正式な海市戸籍を得れば、動きやすい」
紅蓮が冷ややかに視線を投げた。
「最初から、そのつもりで帰れって言う気だったでしょ」
海藻頭は頭をかき、「へへ」と乾いた笑いを漏らす。
「仕方ないっすよ。帝都の市場が、別の連中に叩かれて潰されて……相手は闇、こっちは表。正体も分からないまま損失がデカすぎる。だから引っ越すしかない」
「弟兄たちに伝えて。いつでも動けるように」
「了解!」
海藻頭は踵を返しかけ、思い出したように言った。
「あと、昨日ボスがいない間に暗部へ大口が入りました。海市のある家の治療依頼です。ボス、ちょうど海市にいるし、この案件やります?」
「報酬は?」
「治せたら、金額はボスの言い値でいいって」
紅蓮は眉を上げる。
「いい。これで海市で名を売る」
そのとき、車内からがたん、と音がした。
紅蓮が手を振ると、海藻頭はすぐさま去っていく。
入れ替わりに懐理が近づき、男が消えた方向を覗き込んだ。
「ナナ、今のやつ誰?」
「雇った運転手。車を海市まで回してもらった」
「へえ、そうなんだ」
懐理は疑いもせず、うなじを揉みながら顔をしかめた。
「なんかさ、後ろがすげぇ痛いんだけど……」
「車で寝落ちしてた。寝違えたんじゃない」
「そうか?」
「そう」
懐理は腑に落ちない顔をした。だが思い出そうとすると、痛みがずきんと増す。
ならいい。今はそれどころじゃない。
ナナが帰ってきた。それが一番だ。
「ナナ、家に帰ろう! 父さん母さん、みんな待ってるはずだ」
「……うん。行こう」
紅蓮は反対せず、今度は運転席にも座らなかった。懐理に運転させる。
懐理はようやく男としての面目を取り戻した気分で、落ち着いて車を走らせた。
見せ場を作って格好つけるつもりだったのに、海市の渋滞は容赦がない。少し進んでは止まり、信号のたびに引き戻される。
一時間以上かかって、ようやく車はとある庄園へ入った。
紅蓮はその豪奢さを眺め、夏川家が海市トップの資産家だという懐理の話を信じた。
――この家の娘という肩書きなら、暗部の本部移転もやりやすくなる。
だが車を降りた瞬間、違和感が走る。
使用人たちが荷物を抱え、次々と屋敷から出ていくところだった。
懐理が一人を掴む。
「坂東、どこ行くんだ?」
男は慌てて頭を下げた。
「六男様……この二日、家で大変なことが」
話を聞き、紅蓮は事情を把握した。
夏川家当主は経済事件に巻き込まれ当局に連行され、長男と次男も調査対象。
夏川グループは致命傷を負い、使用人たちは解雇――いままさに去ろうとしている。
懐理はその場で固まった。顔から血の気が引いていく。
紅蓮が袖を軽く引く。
「中を見よう」
懐理はようやく頷き、泣くのか笑うのか分からない顔のまま、紅蓮を連れて中へ入った。
大広間に足を踏み入れた瞬間、目に飛び込んできたのは――
細身の少女が、豪奢な婦人の前に跪いている光景だった。
「お母さま、ごめんなさい……私だって仕方なかったの」
「お父さまとお兄さまたちがああなった以上、家と縁を切らなきゃ諏訪家は私を娶らない」
「でも安心して。断絶書なんて形だけ。私が高見家に嫁いだら、必要なものは――」
婦人は目を閉じ、深い失望を滲ませた。
今回の件は、ただの不運ではない。伏せて力を蓄える意図もあったし、子どもたちを試す意味もあった。
それなのに、二十年以上手塩にかけて育てた養女が、真っ先に家を捨てるとは。
解雇された使用人でさえ、さっきまで「何かあればいつでも戻ります」と言っていたのに。
この子は――。
婦人が口を開こうとした、その瞬間。
懐理が数歩で詰め寄り、少女の頬を思い切り張った。
ぱんっ。
少女は頬を押さえ、呆然と見上げる。
「懐理兄さん……私を叩いたの?」
懐理は氷みたいな目で夏川瑠璃を睨みつけた。
「叩いて何が悪い? 夏川家が終わったと思って、巻き込まれたくないだけだろ」
「あなた――」
「黙れ! 高見家の奥様にでも何でもなれ。今日から夏川家とお前は二度と関わりはない!」
瑠璃は懐理と婦人を見比べ、ふっと鼻で笑って立ち上がった。
「いいわ。あなたたちがそう言ったのよ。私が捨てたんじゃない。あなたたちが私を捨てたの」
そう言って、紙とペンを差し出す。
「署名して。あなたたちの生死なんて、もう知らない」
懐理は婦人が動くより早く断絶書をひったくり、乱暴に署名した。
「書いた。出てけ!」
