第7章 殴られたいのか!
夏川紅蓮が眉をひそめ、口を開きかけた、その瞬間だった。夏川奥様が先に叱りつける。
「懐斗! そんな言い方は許しません」
「ナナはあなたの妹よ。あの子が迷子になったとき、あなたにも大きな責任がある」
「帰ってきた子に、田舎だの何だの……あなたが守るべきでしょう。なのに、よくもそんなことが言えるの?」
「それにね、うちは三代遡れば農家よ。どれだけ高く遠くへ行っても、来た道を忘れちゃいけない」
「部屋へ戻って反省しなさい。私の許しが出るまで、一歩も外へ出るんじゃない」
紅蓮は思わず奥様を見た。
庇ってくれたことに驚いたのではない。
『来た道を忘れちゃいけない』――その言葉が、紅蓮が普段から手下に言い聞かせている信条と同じだったからだ。
……この人とは、根っこのところが似ている。
夏川奥様への好感が、胸の奥で静かに積み上がっていく。
だが懐斗は焦りを隠せない。
「母さん、今のうちの状況で、俺に部屋で反省なんて無茶だろ! 古流会に行って、親父の件で誰か助けを――」
「その話はもういい。あなたが背負うことじゃない」
夏川奥様はきっぱり遮った。
「古流会だか何だか知らないけど、そんなところにはもう行かなくていい。まともな場所じゃありません」
――懐斗がこうなったのは、あの連中のせいだ。
当時、鍛錬になると思って行かせた自分の判断が、間違っていた。
「母さん……」
「私の言うことも聞けないの? あなたは……っ、咳っ、咳っ……!」
奥様が突然、激しく咳き込む。
懐斗は顔色を変え、結局は折れた。
「……分かったよ。部屋で反省すりゃいいんだろ」
吐き捨てるように言ってから、懐斗は紅蓮を睨みつけた。
その目にあるのは、露骨な嫌悪。
――こいつが戻ってきた途端、家は崩れて、俺まで謹慎だ。
疫病神。
そんな罵りが、無言の視線に滲んでいた。
懐斗は苛立ちを引きずったまま出ていく。
残された空気を、夏川懐理が慌てて和らげた。
「ナナ、気にすんなよ。懐斗兄さんは単純で脳筋なだけで、根は悪い奴じゃないんだ」
紅蓮は小さく頷く。
「気にしてない」
気にしなければ、傷つきもしない。
奥様が紅蓮の手をぽん、と軽く叩いた。
「まだあなたに慣れてないだけよ。これからよ。もしこの先も同じなら、母さんに言いなさい。私が叱ってやるから」
紅蓮は心の中で答えた。
――その必要はない。自分で矯正できる。
そこへ懐理が切り出す。
「母さん……懐清兄さんと懐志兄さんも、一緒に連れていかれたって聞いた。告発されたのは親父だけじゃなかったの? 兄貴たちは政治に関わってないのに、どうして――」
奥様は深く息を吐いた。
「あなたのお父さまを連れていくとき、止めようとして揉めたの。もう弁護士は手配してあるし、三郎も動いてる。二人はそう遠くないうちに戻れるはずよ」
「彼って、撮影で現場にいるんじゃ――」
「家がこうなって、現場にいられる子じゃないわ。昨日戻ってきた」
「じゃあ四郎兄さんは?」
「四郎にはまだ知らせてない。アフリカで医療支援中でしょう。余計な心配をさせて、やるべきことを止めさせたくないの」
――見た目は厄介。でもこれは「局」でもある。
ただ、それを今は息子たちに話せない。
懐理は沈んだ顔で頷き、問いかける。
「俺にできることは?」
「準備しなさい。三日後、紅蓮の歓迎宴を開くわ」
奥様の声に迷いはない。
「紅蓮が残ると決めた以上、堂々と迎える。誰にどう見られようと、うちの子として」
「でも……」
懐理が紅蓮をちらりと窺う。
紅蓮は空気を読んで立ち上がった。
「お母さん、薬を煎じてきます」
奥様は頷き、執事に命じる。
「執事、紅蓮を厨房へ案内して」
「かしこまりました、お嬢様。こちらへ」
紅蓮が出ていき、扉が閉まるなり、懐理が低く言った。
「今の夏川家で歓迎宴をしても……来ない人も多いと思う」
「分かってるわ。来る来ないは勝手にさせればいい」
奥様は冷ややかに言い切った。
「大事なのは、紅蓮を正々堂々と迎え入れること。家がどれだけ苦しくても、紅蓮にだけは惨めな思いをさせない。あの子はもう、十分すぎるほど苦労してる」
歓迎宴は、人を見極める場でもある。
来た者も、来なかった者も――忘れない。
懐理は背筋を正す。
「……はい!」
「それと、紅蓮の部屋を整えてあげて。落ち着けるように」
奥様は続けた。
「家がどうであれ、私たちは守る。あの子を」
「分かりました。部屋は俺が整えます。それに……母さん、今までも毎週、紅蓮の部屋を自分で大掃除してたじゃないですか。いつでも住めますよ」
奥様は頷いたが、それでも足りないとでも言うように、スマホを取り出す。
紅蓮の服や生活用品を、自分の指で一つひとつ選び始めた。
あの古びた服が、胸を締めつける。
今までできなかった分を、取り戻すように。
選んでいるうちに笑みが漏れ、次の瞬間には涙が頬を伝う。
笑って、泣いて――それを何度も繰り返した。
……
一方、紅蓮はすでに漢方薬を火にかけていた。
奥様の身体が弱いのは、紅蓮がいなくなってからずっとだ。
だから家には薬が途切れない。必要な生薬もすぐ揃った。
「弱火で一時間」
執事にそう釘を刺して、紅蓮は奥様の部屋へ向かう。
歩きながら、スマホで「海藻頭」から送られてきた夏川家の資料を流し見した。
当主の夏川謙海は連行される前、海市では名の通った人物。
だが六人の息子は、目立つほど突出していない。
――長男は、先天的な足の疾患で車椅子生活。
画面の向こうで海藻頭のメッセージが止まらない。
「ボス、夏川家もう終わりっすよ。ヤバそうならすぐ引いてください。吸い尽くされます」
「田舎のあいつらと同じ穴の狢だったら、ほんと面倒になりますって!」
紅蓮は短く返した。
「うん」
そして階段を上がる。
――高柳月代みたいなのを見たあとだ。簡単に心は開かない。
相手の正体が確かになるまで、自分の「本当の身分」は伏せておく。
今やるべきは、夏川家の人間という立場を使って、暗部を海市へ移すための段取りを整えること。
それだけ。
廊下を進む途中、どこかの部屋から、苦痛を堪えるような息が漏れてきた。
「……っ、く……!」と、歯の間から空気を吸い込む音。
紅蓮は足を止め、ドアノブを回す。
中にいたのは懐斗だった。
水を飲もうとしていたらしい。だが右腕は脱臼したまま力が入らず、コップに水を注いだだけで汗がだらだらと噴き出している。まるで全身を水で洗ったみたいに。
開く音に反応し、懐斗が振り返る。
紅蓮だと分かった瞬間、顔が露骨に歪んだ。
「見物か。笑いに来たんだろ」
紅蓮は答えない。
数歩で距離を詰め、懐斗の右手首を掴んだ。
「何すんだよ!」
懐斗は引こうとするが、紅蓮の指は鷲掴みのように食い込み、びくともしない。
「くそっ……殴るぞ!」
懐斗が左手を振り上げた、そのとき。
ぐい、と小さな衝撃。
骨が収まる感触が伝わった。
「……え?」
懐斗は呆けたように手首を回す。
痛みがない。力が戻っている。
紅蓮が、今の一瞬で――整復したのだと、ようやく理解した。
懐斗が言葉を失って紅蓮を見上げたときには、紅蓮はもう背を向けていた。
何事もなかったかのように、部屋を出ていく。
