第10章
浅川月「???」
勉強?
指導教員??
絵のトラブル???
――はいはい、考えるまでもない。嘘だ。
国内の芸能界で知らない者はいない。沈村蓮は15歳で高校に入って間もなく中退して、芸能人になった。高校すらまともに通ってないうえ成績も壊滅的。どこに「指導してくれた先生」がいるっていうの。
それに、絵で揉めるって何をどう揉めるのよ。
周防覚ほどの肩書きと立場の人間が、絵のいざこざ程度で前に出てくるわけがない。
浅川月はため息をついた。
「沈村蓮、わかるよ。今まで叩かれすぎて、会社が本気で訴訟してくれたり、強い弁護士を付けてくれたりするなんて信じられないんでしょ。変に考えないで。私がいるんだから、どっしり構えて安心してなさい!」
沈村蓮「……」
あの変な女のそばにいた頃、なんで気づかなかったんだろう。このマネージャー、頭のネジがちょっと抜けてる。
信じないと言うなら、もういい。
沈村蓮は淡々と言った。
「周防覚のLINE、送る。あんたが直接やり取りして。弁護士費用は心配しなくていい。あの人、金取らないから」
そう言い切って通話を切り、浅川月にLINEを転送する。
少し考えてから、沈村蓮は「弁護士」とだけ登録してある相手にも、浅川月のLINEを共有した。
すぐに返事が来る。
【?】
沈村蓮は要点だけ打つ。
【私のマネージャー。訴訟の件であなたに依頼したい】
送った途端、相手は沈黙した。
しばらくして、ようやくメッセージが届く。
【研究所を辞めたのは、芸能界に入るためだったのか?】
違う。
けれど沈村蓮には説明できないし、するつもりもない。
【当時は事情があった】
画面上部に「入力中」が出たまま、やけに長い間が空く。やっと表示された文面は短かった。
【訴訟は引き受ける。石野先生がずっと君に会いたがっている。時間があるなら顔を出せ】
沈村蓮の視線が止まる。
しばらく画面を叩いて、文章を作っては消し、作っては消し――結局、何も送らなかった。
スマホをしまい、沈村蓮はベランダの手すりに寄りかかって、真っ黒な夜空を見上げる。
「匂いにつられて来ないのか。もう食べた?」
低く落ち着いた男の声。
振り向くと、隣のベランダに藤原洋介がいた。少し背を丸め、両腕で手すりを支えたままこちらを見ている。柔らかな眼差しが、言葉のない誘いみたいだった。
男の手首――数珠のかかった、やけに整った骨ばったラインに一瞬だけ目が吸い寄せられる。
沈村蓮は迷いなく、ひょいっと仕切りを越えた。
「何食べるの?」
「豚スペアリブの甘辛煮、海老の塩炒め、ふきのとうの卵とじ」
藤原洋介が手を上げる。足を滑らせたら支えるつもりなのだろう。
けれど沈村蓮の動きは無駄がなく、するりと彼を避けて着地すると、そのまま室内へ入っていった。
ダイニングテーブルには、すでに箸も茶碗も揃っている。
沈村蓮は手を洗って席に着き、箸を取ろうとして――ふと顔を上げた。
藤原洋介はまだ来ていない。電話中だ。
沈村蓮は箸を置き、肘をついて頬杖をつき、ぼんやり待つ。
藤原洋介は淡々と一言だけ言った。
「受けない」
通話を切る。
沈村蓮の首の傾きと視線に気づいたのか、藤原洋介は一拍置いてから言った。
「病院からだ。体が弱くて、目も悪い患者が診察の予約を取りたいらしい」
「……あんた、医者なの?」
沈村蓮が少しだけ背筋を伸ばす。
藤原洋介は席に着き、短く頷いた。
沈村蓮は料理に目を落とし、妙に行儀よく言う。
「私、ひとりで食べられる。忙しいなら行けば?」
藤原洋介は眉をわずかに上げた。
「構わない。その患者の症状は、俺の専門じゃない」
沈村蓮はそれ以上言わず、黙々と食べ始めた。
……
浅川月は会社で遅くまでバタついていた。鈴原明志への内容証明の件で、やることが山ほどある。
同僚が胸を張る。
「うち盛川の法務チーム、業界でも有名だよ。相手が喧嘩売ってきても、絶対に勝ち目ないって!」
浅川月も自信はあった。
あのクズ男女、ずっと我慢してきた。ここで一発、沈村蓮の分までまとめて晴らしてやる。
ただ、経験上、この訴訟はすぐには動かない。動くとしても、番組の放送が終わってからだ。
同じ番組に出ている最中に揉めたら、最悪、番組そのものが飛ぶ。田山監督がそんなリスクを取るはずがない。
案の定、その夜、番組側から電話が来た。大崎副監督だ。
声色からして機嫌が悪い。
「調停で収めてください。番組に影響が出るのは困ります」
浅川月は想定内だった。
「いいですよ。ただし、相手が声明を出して謝罪すること。今回、先に仕掛けてきたのは向こうです。動画にもはっきり映ってますし、謝罪は当然でしょう?」
電話の向こうで、大崎副監督の顔色が青くなる。
鈴原明志側も「謝罪しろ」と言ってきているのだ。
鈴原家は出資額が大きい。下手に敵に回せない。
なのに、こちらの盛川上層部も何を思ったか、沈村蓮の意向を最優先にして「沈村蓮の利益を守れ」と譲らない。
黒い噂まみれの問題児に、そこまで肩入れする意味がどこにある。
田山監督がどうして沈村蓮を残したがるのかも理解できない。盛川の投資が絡んでるからなのか――?
大崎副監督は吐き捨てるように言った。
「沈村蓮は格が下です。鈴原明志さんと葉山詩音さんの前では後輩でしょう。先輩が後輩に謝るなんてあり得ない。そっちで考えてください。謝罪も和解もできないなら、番組への参加はなしです!」
言い終えるなり、ぶつっと切れた。浅川月に口を挟む隙すら与えない。
浅川月はさすがに胸がざわつき、上層部に電話を入れた。
大崎副監督の言葉が田山監督の総意とは限らないと聞き、ようやく落ち着く。
そのまま鈴原明志のマネージャーに連絡し、こちらの要求を堂々と突きつけた。
通話の向こうで鈴原明志が怒鳴り散らしている気配がして、浅川月は切ったあとも、しばらく笑いが止まらなかった。
もし本当に裁判になって番組に出られなくなったとしても――せめて裁判は勝つ。沈村蓮には別の仕事を探して、段階的に押し上げればいい。
方針が固まったところで、浅川月は沈村蓮から送られてきたLINEのことを思い出す。
せっかくの好意だ。無下にもできない。
友だち追加を試してみた。
しばらくして、退社しようとした頃に承認され、メッセージが一通だけ届く。
【案件資料を送ってください】
……それっぽい。
浅川月は探りを入れる。
【あなた、本当に周防覚?】
【そうです】
【信じない】
【……】
浅川月は眉をひそめた。
沈村蓮と長い付き合いだが、こんな「周防覚」なんて人物の話、聞いたこともない。
本当に知り合いなら、今までどうして権利侵害の件で頼らなかったのか。
沈村蓮が騙されてる可能性が高い。
浅川月は警戒心を強める。
【私、頭いいから騙されないよ。証明したいなら写真送って】
相手はすぐに写真を送ってきた。
スーツ姿の男。背が高く脚が長い。輪郭の整った端正な顔立ちに、金縁の眼鏡。冷静沈着なエリート然とした雰囲気。
雑誌のグラビアみたいに、やたら出来がいい。
浅川月は即座に検索をかけた。
案の定、「若手俊英インタビュー」系の国家級雑誌の表紙がその写真だった。ネットで普通に拾えるやつ。
危なかった。もう少しで引っかかるところだった。
沈村蓮、顔がいい男に弱いし、こういう拾い画像に騙されたんじゃないの。
浅川月は侮蔑のスタンプを投げる。
【その程度で賢くて機転の利く私を騙せると思った? 騙すなら下調べしてからにして】
【???】
浅川月はそれ以上相手にせず、そのアカウントをブロック。
鼻歌まじりに、機嫌よく会社を出た。
