第5章
沈村蓮は、思わず笑ってしまった。
「譲歩? あの子は私の身分を奪って、家族まで奪っておいて……どこをどう譲ったっていうの?」
「……ああ、そういう話をするならさ。言わせてもらうけど、葉山詩音は『出ていく』って何度も言ってたよな。で、実際に出ていったこと、一回でもある? 表ではいい子ぶって、裏じゃ別の顔。譲歩が得意だよね」
「沈村蓮! あなた、いったい何がしたいの?!」
受話器の向こうで、沈村梅子の怒声が弾けた。横では葉山詩音が可哀想な声で仲裁している――のに、その言葉が火に油を注いだらしく、葉山和也と沈村梅子はますます怒り、口汚く沈村蓮を罵り始める。
沈村蓮の中に残っていた、ほんのわずかな情も消えた。
最初は、こう思っていたのだ。あの「変な女」は自分じゃない。血の繋がりがあるからといって、葉山家の人間があの女を心から可愛がれるはずもない、と。
それに、葉山家の人間はあの女の本当の家族でもない。あの女自身も葉山家に執着していなかったから、ここまで拗れたのだろう、と。
でも、違った。
葉山家の人間は、ただ純粋に葉山詩音だけを贔屓している。
「見つかった」自分のほうが、よそ者なのだ。
沈村蓮は淡々と言った。
「明日の午後4時。市立病院で」
葉山和也が一瞬言葉を失った。病院で何をするつもりだ。
眉をひそめて言う。
「詩音ちゃんのために病院で釈明して謝るのか? そんなのいらない。動画を撮ってネットで釈明して、それから家に来て詩音ちゃんに謝れ」
沈村蓮は鼻で笑った。
「あの子に、私の謝罪を受ける顔も資格もない。さっさとどっか行けば?」
「お前……!」
葉山和也が言い返そうとした瞬間、沈村蓮が被せた。
「病院でDNA鑑定。葉山家の他の連中も連れてきて」
声に薄い嘲りが混じる。
「ほんと信じられない。あんたたちみたいな愚か者の集まりから、よく私みたいな「まとも」が生まれたね」
言い終えるや否や、沈村蓮は葉山和也の戯言を聞く気もなく通話を切り、その番号をブロックした。
その後かかってきた知らない番号も、片っ端からブロック。
眠りにつこうとしたところで、浅川月から電話が入った。
浅川月は興奮しきった声だ。
「沈村蓮、見た?! 今回はついに、葉山詩音のほうが叩かれてる! しかも会社が、あなたを重点的に育てるって!」
沈村蓮は気のない声で「ふうん」と返した。
勢いづいた浅川月は続ける。
「それから、前にあなたを叩いてた記事とか投稿、全部消えてる! 広報に聞いたけど、うちじゃないって」
ふと閃いたように言った。
「ねえ、あなたがやったの?」
沈村蓮は平然と返す。
「そう思う?」
「じゃあ違うか。あなたにそんな力ないもんね。きっと神様が、やっと味方してくれたんだよ!」
浅川月は上機嫌だった。
沈村蓮は欠伸を噛み殺す。
「寝る」
「ここ何日もバタバタしてたし、疲れたよね。安心して寝て。こっちは田山監督に連絡してるところ。話がまとまったら迎えに行って、契約のサインしよう」
沈村蓮は「うん」とだけ言って切った。
沈村蓮はぐっすり眠ったが、葉山家はそうはいかなかった。
沈村梅子と葉山和也は怒りに任せてリビングの物を半分以上叩き壊し、盛川のコントロール下でネットの葉山詩音叩きは加速する一方。
葉山詩音は罵倒の嵐に一睡もできず、やつれた顔は血の気が引いて真っ白だった。
そして翌朝、ついに葉山詩音は雑に謝罪動画を撮って投稿し、ひとまず炎上を抑え込む。
胸の奥では、沈村蓮への憎しみが煮えたぎっていた。
葉山詩音には、まだ一縷の望みがあった。沈村蓮が釈明さえすれば、世論はまた一気に反転して、沈村蓮を叩き潰せるはず――と。
だが沈村蓮は家を出たあと、どこに住んでいるかを一切知らせていない。
人を探せない葉山詩音は、午後の病院での待ち合わせに賭けるしかなく、必死に沈村梅子をなだめて連れていった。
一方の葉山和也は、どうしても行こうとしなかった。
傲慢に生きてきた男にとって、沈村蓮に嘲られ、一本取られた形になるのが耐えられない。
それでも葉山詩音と沈村梅子は病院で夜まで待った。
沈村蓮は現れなかった。
代わりに、パパラッチに散々写真を撮られ、それがネットに流れて新たな叩きの燃料になる。
生まれて初めて沈村蓮にここまで扱われた沈村梅子も、さすがに堪えきれなかった。怒り狂って電話をかけるが、繋がらない。苛立ちのまま病院の入口でスマホに向かって罵声を浴びせ、周囲の視線を集める。
その頃の沈村蓮は、マンションの浴槽で湯に浸かっていた。
葉山家を出るとき、沈村蓮はついでに「葉山家の人間のDNAが付いたもの」を持ち出していた。朝のうちに病院へ渡し、検査に回してある。
午後4時と言ったのは、ただの嫌がらせだ。
そもそも会いに行く気など、最初からない。
この6年、身体を使っていたのはあの変な女だ。それでも沈村蓮は忘れていない。葉山家に戻った初日、自分はタクシーで行った。
そして葉山家で、丸一日待った。
そのとき葉山家の人間は、全員が葉山詩音のピアノコンクールを見に行っていたのだ。
だから沈村蓮は、最初から葉山家に居場所を作るつもりなどなかった。
あのとき言わなかったのは、祖父を安心させたかったから。療養中の祖父に、余計な心配をさせたくなかった。
祖父のことを思い出し、沈村蓮の目が沈む。湯から上がり、服を着替えた。
スマホは相変わらず鳴りっぱなしで、浅川月からのメッセージが飛んでくる。仕事の打診が山ほど来て、夢みたいに忙しい、今もまだ浮かれてる――そんな内容だ。
沈村蓮は数通だけ返し、スマホをマナーモードにして書斎へ向かった。
と、その足が止まる。
気のせいか、焼き肉の匂いがした。
沈村蓮は方向を変え、バルコニーへ。
ここは市中心部のDH区にあるマンションで、設備も悪くない。1フロアの住戸数が少なく、比較的静かな環境だ。
とはいえ、隣人がいないわけじゃない。
匂いのする右手を見ると、隣のバルコニーにグリルが置かれていた。
沈村蓮の視力なら、網の上の肉がじゅうじゅう脂を弾いているのが見える。香りが暴力的に食欲を刺激する。
2日続けてデリバリーだった沈村蓮は、黙り込んだ。
数秒後、引き返そうとした――そのとき。
聞き覚えのある低い声がした。
「奇遇だな」
振り向くと、隣のバルコニーに背の高い男が出てきた。昨日、相乗りしたあの男だ。
ここに住んでいたのか。
沈村蓮は焼き肉を一瞥し、涼しい顔で顎を引く。何気ない調子で訊いた。
「こんな時間なのに、まだ夕飯?」
男は皿を置いて答える。
「まだだ」
沈村蓮は言う。
「ほんとに奇遇。私もまだ」
男はわずかに眉を上げ、椅子に座り直した。
「すまない。じゃあ邪魔しない。夕食、楽しんでくれ」
沈村蓮は言葉を失った。
無言のまま、部屋の中へ引っ込む。
男の目に、かすかな笑みが走った。袖をまくり、焼けた肉を次々と取り分ける。うちわで風を送りながら焼き加減を見て、時間を見計らって部屋へ戻り、コーラの缶を持ってきた。
座った、その瞬間。
向かいから足音。
男が目を上げると、向こうの「お嬢ちゃん」がようやく出てきた。手すりにもたれ、指先には黒いカードが挟まれている。
いかにも適当な口ぶりで言った。
「食費?」
男は口元をわずかに吊り上げ、頷く。
次の瞬間、沈村蓮は19階の手すりを軽々と支点にして、ひらりと隔てを越えてきた。男の瞳がきゅっと細まる。
「ドアがあるだろ」
男の声が低く沈む。
沈村蓮は平然と言う。
「遅い」
男は薄い唇を結び、沈村蓮がさっさとこちらに来て座るのを見届ける。テーブルのコーラに沈村蓮の目が一瞬きらりとした――が。
男は先に手を伸ばして缶を取り上げ、立ち上がりざまに言い捨てた。
「焼き肉はある。コーラはない」
沈村蓮は睨む。
「金は払った」
男は淡々と返す。
「売らない」
沈村蓮は黙った。
別にいい。そこまで飲みたいわけでもない。
焼き肉を一口頬張り、沈村蓮はまた手すりを越えて戻ると、デリバリーの残りの冷えたビールを取ってきた。
男が戻ってきたとき、ちょうど沈村蓮が缶ビールを抱えて、またひらりと越えてくるところだった。
「……」
