第6章

男がこちらを見ているのに気づき、沈村蓮は氷で冷えた缶ビールを一本、テーブルの向こうへすっと押しやった。

「どうぞ。私、けっこう太っ腹だから」

男は困ったように眉を動かし、いったん立ち上がった身体を座り直す。

「次はドアから来い」

「はーい」

沈村蓮は気にも留めず、ただ黙々と焼き肉を頬張った。

男もそれ以上は言わない。トングを取り、肉を返し、焼けたものを沈村蓮の皿へ移し、また焼く。沈村蓮が食べ終えるたび、男は淡々と追加を置いていく。

最後には沈村蓮がきれいに平らげたのに、男のほうは一口も手をつけていなかった。

それに気づいて、沈村蓮は立ち上がる。

「カード、置いとく。暗証番号は171109」

男がわずかに目を見開き、テーブル脇の黒いカードへ視線を落とした。次の瞬間、きっぱりと言う。

「いらない」

沈村蓮は手すりのところで足を止め、振り返って首をかしげた。

男は自分のスマホを取り出し、指先で数回タップしてからテーブルに置く。画面を沈村蓮のほうへ向けて。

「俺はオンライン送金のほうが好きなんだ」

「……それで?」

「連絡先、追加して」

男が軽く眉を上げる。

沈村蓮は黒い瞳でじっと見返し、動かない。

男は焦らすでもなく、ゆるい調子で続けた。

「普段は自炊なんだけど、一人だと食いきれない」

さっきの焼き肉を思い出し、沈村蓮は迷わず戻って追加した。

追加し終えるなり踵を返すと、男が指の背でコンコンとテーブルを叩く。沈村蓮が目を向けたタイミングで言った。

「お隣さん。備考も入れてくれよ。別に無茶じゃないだろ?」

「沈村蓮」

即答だった。

男の目に笑みが差す。

「俺は藤原。藤原洋介」

「ふーん」

沈村蓮はもう一度だけ男を見て、それから手すりを越えて自分のベランダへひらりと戻った。向こう側に残された藤原洋介が、低く息をつく。

書斎へ戻って少しして、沈村蓮はふと思い立ったようにスマホを取り、隣の男の名前を登録し直す。続けて金額を入力し、送金。備考は「飯代」。

だが、すぐに返ってきた。

【カード、まだそっちにある】

沈村蓮の視線が止まる。

しばらく無言で画面を見つめ、スマホを置いて作業に戻った。通知音が鳴っても、手を止めない。

寝る前に確認すると、浅川月ではなく隣からのメッセージだった。

【明日の朝、朝食作る。食べるなら一人分多めに作る】

沈村蓮はごくりと唾を飲み込む。

【食べる】

【了解】

秒で返ってきた。

沈村蓮は満足して灯りを消し、そのまま眠った。

翌日、目が覚めたのは昼前。のそのそとベランダを越えていくと、ちょうど向こうも朝食ができたところだった。

隣の部屋の内装は、沈村蓮の部屋と似たテイスト。無機質で、すっきりしている。

「相談がある」

藤原洋介が食器を差し出しながら言った。

「嫌じゃなければ、外のベランダを繋げたい。扉を付けて、鍵はお前に渡す」

少し間を置き、どこか愉快そうに目を細める。

「それとも……ドアから来るか?」

沈村蓮は即決した。

「繋げて」

言い終えた瞬間、浅川月から電話が入る。沈村蓮は食べながら出た。

「なに?」

浅川月の声は弾んでいる。

「沈村蓮! 田山監督のバラエティ、ついに話まとまったよ! もう決定! 今日の午後、現場入りして契約するから!」

「何時?」

「午後2時!」

「住所、送って」

「了解!」

浅川月は切ろうとして、ふと思い出したように言う。

「ていうか、あんたどこ住んでんの? 前に聞いたときも濁したじゃん。これから仕事増えるし、会社の車で迎えに行けたほうが楽だよ」

沈村蓮はわかっていた。あの女が浅川月に住所を言わなかったのは、葉山家とずっと折り合いが悪いからだ。そもそも葉山家は彼女の存在を公に認めたことがない。だから、葉山家と関わりがあると知られるのも嫌だったのだろう。

葉山詩音との関係も、浅川月は知らない。

今回は隠さず言った。

「DHマンション」

浅川月が声を裏返す。

「え、マジで? DHマンションって家賃もえげつないとこじゃん! 隠れ富豪かよ!」

沈村蓮は適当に返す。

「前にちょっとバイトして、貯金があるだけ」

「うわ、羨ましすぎる……じゃあ午後、迎えに行くね。道も覚えたいし」

「うん」

沈村蓮は通話を切った。

向かいの藤原洋介は朝食に集中している。所作の一つ一つが洗練されていて、品がある。沈村蓮の身元に興味を示す気配もない。

ただ、沈村蓮が視線を向けたときだけ、気づいたようにまぶたを持ち上げた。

「口に合わない? 別のものがいいなら作るけど」

「違う」

沈村蓮は目を落として食べ続け、それ以上は言わなかった。

藤原洋介も追及しない。

食卓は静かだったが、不思議と居心地がいい。

食べ終えると、沈村蓮はまたベランダを越えて自室へ戻った。

ほどなくチャイムが鳴る。藤原洋介は無視し、テーブル周りを片づけ続けた。

来客も察しているのか、二度目は鳴らさない。鍵を開けて勝手に入ってくる。

「洋介様」

周防紀太郎が書類の束を抱えて入室し、室内の光景を見て固まった。

……見間違いか?

洋介様の、あの高貴な手が、なんで皿だの箸だのを……。今日、家政婦は来てないのか?

周防紀太郎は慌てて書類を置き、駆け寄る。

「洋介様、私がやります、私が!」

「不要だ」

藤原洋介は淡々と拒み、食器を持ったままキッチンへ向かった。

周防紀太郎も放っておけず、気まずそうに入口付近に立ち、何か手伝えることがないか目で探す。

見ているうちに、違和感が膨らんだ。

「洋介様、もうすぐ10時ですが……これ、朝食……ですよね? しかも量が……。ずっと召し上がってなかったんですか?」

それに、食器が二人分ある。洋介様は来客を徹底的に拒む人間のはずなのに。

藤原洋介の声は温度が読めない。

「暇なのか?」

周防紀太郎は反射的に口を押さえた。

すると藤原洋介が、ふいに言う。

「手配しろ。外のベランダと隣のベランダを繋げる」

周防紀太郎は目を丸くし、頭の中を疑問符で埋めながらも、

「かしこまりました」

と答えた。好奇心を隠しきれない視線が、何度も隣の方向へ泳ぐ。

藤原洋介が片づけを終えると、周防紀太郎は持参した書類を差し出した。

「こちら、サインが必要なものです。それと、午後は市立病院でオペが一件。病院から資料も届いております」

周防紀太郎は、ソファに腰を下ろす男を見ながら内心でため息をつく。

この人は本物の「若様」だ。

T市四大名門、その筆頭――藤原家の出。

だが「洋介様」と呼ばれるのは、藤原家の看板だけが理由じゃない。本人が、そう呼ばせるだけのものを持っている。

十四歳で藤原家の諸々を引き受け、雷のような手腕でT市の古狸どもを手玉に取った。

十八歳で海外の名門を飛び級卒業。金融と医学のダブル博士。いまも国際医療組織における日本人トップで、彼の執刀する一件を求めて人が殺到する。

二十一歳にして、アメリカのウォール街で伝説と呼ばれた。自ら立ち上げたテック企業は、いまや業界の巨頭。影響力は計り知れない。

まさに、栄光の塊。

それなのに――ほどなくして海外の会社を友人に譲り、帰国。T市では医者としてだけ生きる道を選んだ。

四年、徹底して表に出ず。

そして突然、藤原家を継ぎ、現当主となった。

誰もが「いよいよT市の覇権を取りに来る」と息を呑んだのに、男はまた一年、姿を消した。

最近になってようやく、S市にいるらしいと外に漏れた。皆が水面下で探り合い、何を企んでいるのかと勝手に憶測している。

だが――外部どころか、周防紀太郎ですら、この主の考えは読めない。

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