第7章
沈村蓮が戻ってから、何通かメッセージが届いた。連絡先の表示名は「医者」。
いま彼女が使っているのは、六年前の古い番号だ。連絡帳に入っている人間も、当時からの知り合いが半分ほど残っている。
あの一年、彼女の魂が行っていた場所は厳密にはこの世界の中だった。だから番号もそのまま生かし、戻ってからも同じSIMを差し直した。いちいち新しいものに替えるのが面倒だっただけだ。
一年の空白があっても、元々その「旧知」は用があるときだけオンラインで連絡してくる程度。普段は互いに干渉しない。彼らの目には、せいぜい「一年ほど姿を消していた」くらいに映る。
DNA鑑定を頼んだときも、沈村蓮は葉山家の連中のためにわざわざ病院へ行く気になれず、この医者に頼んだ。結果が出たら写真を撮って送ってほしい、と。
返事は早かった。
沈村蓮はトーク画面を開き、送られてきた写真を数枚確認する。指で一気に最後まで飛ばし、拡大した瞬間、眉が寄った。
……実子、だった。
沈村蓮はしばらく画面を睨み、打ち込む。
【間違いじゃない?】
相手。
【……本気で言ってる?】
【俺の腕が、小さな検査報告書すら取り違えるレベルだと思ってるわけ?】
沈村蓮:【そういう意味じゃない】
会ったことはないが、名門出の優秀な医者だということくらいは知っている。間違えるはずがない。
なら、なおさら最悪だ。
沈村蓮は認めたくなかった。自分が葉山家の人間と、本当に血で繋がっているなんて。
胸の奥に澱が溜まる。沈村蓮はスマホを伏せ、見なかったことにした。視界に入れなければ、少しはマシだ。
午後、浅川月がやって来た。玄関先で沈村蓮を見るなり、髪色に目を留める。
「沈村蓮、髪……どうしたの? 前にさ、あのファンが青髪が一番好きだから、ずっと残すって言ってなかった?」
沈村蓮は適当に返す。
「目立つ。変える」
「じゃあ、その服も……」
浅川月は沈村蓮のシャツとパンツ姿を見て、以前の派手な格好を思い出したのか、言葉を飲み込んだ。
アンチは沈村蓮を花瓶だの、文字も読めないだのと叩く。だが「顔が悪い」と言う者は一人もいない。骨格も体格も恵まれていて、何を着ても目を引く、まるで服のほうが彼女に合わせているみたいに。
なのに今の沈村蓮は、どこか違う。顔は同じはずなのに、漂う空気がまるで別人――月とすっぽん、というやつだ。
沈村蓮は指でサングラスを少し押し下げ、瞼を持ち上げる。
「似合わない? 番組の現場に行くの、まずい?」
見つめられた浅川月は頬を赤くして、慌てて首を振った。
「ち、違う! そうじゃなくて……」
「じゃ、行く」
沈村蓮が歩き出し、浅川月は慌てて後を追った。
もしさっきまでが「なんとなく」なら、現場へ向かう車中で浅川月は「確信」に変わった。
気配が強すぎる。後部座席で雑誌をぱらぱらとめくっているだけなのに、視界から消えてくれない。浅川月のほうが、うっかり話しかけるのも躊躇うほどだ。
浅川月は咳払いを二つして、無理に雑談を作った。
「沈村蓮、どんなバイトしてたの? 楽なら、私もやろうかなって」
「ゲームの代行。ミニアプリ作り。組み立ての手伝い。計算。代筆。絵……いろいろ」
沈村蓮は淡々と言いながら、雑誌をもう一枚めくる。
浅川月はバックミラー越しに沈村蓮を見て、信じられない顔をした。
「え、ほんとに? そんな簡単なバイトで、DHマンションに住めるだけ稼げるの?」
沈村蓮は「ふうん」とだけ返す。
「量が多かったんじゃない」
つまり、仕事がない日々、沈村蓮はそれで自分を埋めていたのだ。
浅川月の脳内で勝手に物語が完成する。きっと沈村蓮は、誹謗中傷の痛みを忘れるために必死で……!
浅川月の目に、痛々しいほどの同情が宿った。マネージャーとして、もっと頑張らなきゃ、と心の中で固く誓う。
それに気づいた沈村蓮は、わずかに眉を動かした。
「……?」
収録の制作チームに到着し、浅川月は車を停めて沈村蓮を案内する。
今回の契約手続きは大崎副監督が全権で担当しており、田山監督は姿すら見せなかった。
大崎副監督は沈村蓮を見ると、表情は淡々としているが、最低限の礼は保っていた。
沈村蓮は契約書にざっと目を通し、さっさと署名して帰ろうとする。その速さが、大崎副監督には「適当に流された」としか思えない。
大崎副監督の顔に、うっすら不快が滲んだ。
浅川月は慌てて愛想笑いを作り、取り繕うように何句か言ってから、沈村蓮の後を追う。
脇にいた助手が不満げに口を尖らせる。
「大崎監督、あの沈村蓮、ネットで言われてる通りですね。完全に人を見下してる。盛川が何十億も出して枠を替えなきゃ、ここに一歩も入れないくせに。あんな大騒ぎを起こしたのに、田山監督がまだ残すなんて……何考えてるんですかね」
大崎副監督は低く叱った。
「黙れ。お前が口を挟む話じゃない。田山監督には田山監督の意図がある」
言葉はきついのに、責める熱はない。
助手はぶつぶつ続ける。
「黒い話題で使うにしても、黒歴史が多すぎますよ。あれを使ったら、うちの看板に泥塗るだけじゃないですか。これからは誰でもうちを狙ってくる」
大崎副監督は険しい顔のまま契約書へ視線を落とし、末尾の署名欄で手が止まった。
沈村蓮のサイン。
筆圧は鋭く、線は跳ね、型にはまらない奔放さと傲りがそのまま字になっている。それでいて、妙に芯がある。
――あの沈村蓮が、こんな字を書くのか。
一方その頃。
浅川月は沈村蓮に、今後は大崎副監督にもっと丁寧に接するよう、諭すように言い聞かせていた。
沈村蓮は気のない相槌を二、三回返す。
そのとき、前方から怒りを含んだ男の声が飛んできた。
「沈村蓮? よくもまあ、のこのこ顔を出せたな!」
沈村蓮はだるそうに目を上げる。
少し先、階段の踊り場に二人が立っていた。
一人は、数日ぶりに見る顔色の悪い葉山詩音。もう一人は、背が高く整った若い男だ。
浅川月が息を呑む。
「鈴原明志? なんで葉山詩音と一緒にここに……!」
沈村蓮は、あの「変な女」がこの身体を使っていた頃に、鈴原明志と何度か顔を合わせている。
国内芸能界の人気歌手。五年前、オリジナル曲一発で一夜にして跳ね、その後も自作アルバムを何枚も出してヒットを重ね、一気に名を上げた。
見た目も強い。表に出るたび顔でファンを増やし、いわゆる「彼女面」層まで抱え込んで、熱量が高い。
そして三年前、葉山詩音が芸能界で名を上げると、二人はファンに「名門カップル」として持ち上げられた。それが鈴原明志の一般受けを押し上げ、彼も一線級へと押し上げられた。
そもそも、二人がそう扱われる理由がある。
葉山家と鈴原家はS市の名家同士で、付き合いも深く、商売上の繋がりも多い。だから昔から、葉山家の令嬢と鈴原明志の婚約が内々に決まっていた。
つまり――本来なら、鈴原明志は沈村蓮の正真正銘の婚約者だ。
ただし、病院で取り違えが起きた。鈴原明志と一緒に育ったのは、沈村蓮ではなく葉山詩音だった。
沈村蓮は覚えている。
葉山家へ来た翌日、葉山詩音が彼女を呼び止め、泣きそうな顔で謝ってきたこと。両親がわざと沈村蓮をないがしろにしているわけじゃない、ただ自分の大会が本当に大事で――と。
沈村蓮には葉山成也にも沈村梅子にも情はない。気にしたこともない。さっさと「いずれ葉山家を出る」と切り出したいだけだった。
だから言ったのは、ただ一言。
邪魔だから、どいて。
すると鈴原明志が現れて、怒鳴りつけた。どうして葉山詩音にそんな顔をするんだ、と。さらに、俺が婚約者として認めるのは葉山詩音だけだ、お前は勘違いするな、と。
沈村蓮は当時、心底理解できなかった。
葉山家の連中は、どうして揃いも揃って頭がおかしいのか。しかもその病気を、こっちにまでうつそうとするのか。
その直後に「変な女」が来てしまい、鈴原明志に一言――お前、邪魔なんだよ――と叩きつける暇すらなかった。
それが、沈村蓮の心残りだった。
