第8章

さらに言えば、葉山家はこれまで一度も「沈村蓮こそが本物のお嬢様だ」と公にしたことがない。外の人間が知っているのは、葉山詩音だけだった。

芸能界に入ってからも、葉山詩音は名門の出自を隠そうとしない。鈴原明志に至っては、公の場であからさまに肩入れしてみせることが何度もあった。

そのせいでネット民の特定は早かった。あっという間に掘り起こされ、口々に叫ぶ。

【合理的に考えて鈴原さん、若奥様を追いかけて国内芸能界入りした説!!】

【家柄も釣り合ってるし、2人とも優秀とか何それ……美しすぎる恋愛なんだが!!】

【恋愛は他人がしてるのを見るのが一番甘いってそれ一番言われてるから!!】

――沈村蓮は、例の変な女と同じく、そんなものに欠片も興味がなかった。

だが葉山詩音は、ことあるごとに自慢しては嫌味を投げてくる。しかも何度も何度も、鈴原明志に「自分がいじめられている」と誤解させるよう仕向けた。

その結果、鈴原明志は公の場で堂々と変な女を名指しし、露骨な嫌悪を示す。ファンもそれに乗っかり、変な女への誹謗中傷と不買運動まがいの抵制が加速し、彼女の仕事は次々と潰れていった。

変な女は「鈴原明志と婚約しているのは自分だ」と主張した。

けれど鈴原明志は認めない。葉山詩音は遠回しに嘲る。葉山家も鈴原家も、表に出て否定も肯定もしない。

そんな状況で、いったい何人が信じるというのか。

変な女への炎上はさらに激しくなり、「恥知らず」「人の恋路に割り込むな」と叩かれ続けた。

だからこそ浅川月は、あの二人に対して警戒心むき出しだった。

「沈村蓮、行こ! 相手にしない! 会社戻ってスケジュール回して稼ぐの! でっかい仕事、もっともっと取って、あいつら嫉妬で死なせよ!」

けれど沈村蓮は動かなかった。

そのとき、向こうから鈴原明志が怒りを剥き出しにして突進してくる。沈村蓮を指さし、いきなり怒鳴った。

「沈村蓮! お前、詩音に何してくれてんだよ。お前のせいで詩音はろくに休めてないんだぞ。今すぐ、今この場で謝れ! 詩音に許してもらえ!」

浅川月は目を見開いた。

「うちの沈村蓮が、あの子に謝る? 頭に水でも入ってんの?? 悪いのは葉山詩音のほうでしょ!」

少し後ろにいた葉山詩音が、視線をすっと細める。陰りを帯びた目で沈村蓮を見据えた。

鈴原明志は浅川月を見下すように鼻で笑う。

「お前、何様? 俺の前で口きく資格があると思ってんのか。黙って引っ込んでろ」

浅川月は普通の家庭の出だ。鈴原家を敵に回せば面倒なのはわかっている。それでも沈村蓮の前に立った。

「私は何者でもないよ。でも、あんたみたいに目が腐ってて、どっちがいじめてるかもわかんない人間よりはマシ!」

「……お前!」

持ち上げられるのが当たり前の男だ。面と向かってここまで言われたことがないのだろう。鈴原明志はカッとなって手を振り上げた。

――だが、振り下ろせない。

鈴原明志は目を見開いた。

自分の手首を、沈村蓮ががっちりと掴んでいる。

浅川月も固まった。沈村蓮の動きが速すぎて、目で追えなかったのだ。

周囲を通りかかったスタッフが足を止め、ざわざわと野次馬の輪ができる。

葉山詩音は、もう傍観していられない。小走りで近づき、柔らかな声で宥めた。

「沈村蓮、あなたが私に……ううん、大丈夫。私は気にしてないから。でも、こんなことして何になるの? 明志お兄さんは私のために言ってくれただけで、わざとじゃないの。ほら、放して。みんな穏便に――ね?」

鈴原明志が吐き捨てる。

「詩音、優しくしてやっても無駄だ。こいつは調子に乗るだけだろ」

そう言いながら、鈴原明志は沈村蓮の手を振りほどこうとする。だが、びくともしない。

むしろ手首が締め上げられ、じん、と痛みが走った。

何だこれ……!

鈴原明志は歯ぎしりして怒鳴る。

「離せ――」

「――パァン!」

乾いた音が廊下に響いた瞬間、空気が凍りついた。

誰もが口を開けたまま、目の前の光景を見つめる。

鈴原明志の整った顔に、くっきりと赤い手形。

数秒、呆けたように固まったあと、彼はゆっくり顔を戻し、沈村蓮を睨みつける。その目が、じわじわと陰険に濁っていく。

「……俺を殴った? 沈村蓮、お前、命が惜しくな――あっ!」

言い終わる前に、沈村蓮が足を上げた。

迷いのない一撃。速く、正確で、容赦がない。

鈴原明志の身体が吹き飛び、ドンッと数メートル先の床に叩きつけられる。さらにごろごろと転がり、ようやく止まった。

激痛に顔を歪め、身体を丸めたまま、しばらく起き上がれない。

葉山詩音が甲高く叫ぶ。

「沈村蓮、何してるの!? 明志お兄さん、大丈夫!? ねえ、しっかりして!」

慌てて駆け寄り、鈴原明志の顔を見る。血の気が引いて、今にも気を失いそうだった。

痛みだけじゃない。怒りで血が逆流し、視界が暗くなる。鈴原明志は震える指で沈村蓮を指した。

「お前……お前、よくも……!」

沈村蓮は手首を軽く回し、淡々と言い放つ。

「何。あんたたちは私に足を引っかけていいのに、私はやり返しちゃダメって? 次、また指さしたり、私の人に手を出したりしたら――その手、落とす」

鈴原明志は起き上がろうとした。だが、さっきの一撃が重すぎて身体が言うことをきかない。

葉山詩音は泣きそうな顔で介抱し、鈴原明志は強がって「平気だ」と言う。けれど実際は痛みで目の前が真っ黒だった。

沈村蓮は、見ていられないとばかりに顔を背け、浅川月へ言う。

「行くよ」

これ以上見ていたら、夕飯が喉を通らない。

浅川月はまだ衝撃から戻れず、魂が抜けた顔をしていた。沈村蓮はその手を引いて歩き出す。

浅川月だけじゃない。周囲のスタッフも呆然としていた。

鈴原明志が「医者呼べ!」と怒鳴って、ようやく現場がどっと動き出す。たちまち大混乱。

一方――。

帰り道。浅川月は運転しながら、バックミラー越しに沈村蓮を何度も盗み見た。人生観が揺らいでいる顔だ。

沈村蓮はスマホの画面を見下ろしたまま、淡々と言う。

「監視カメラあるから」

「……え?」

浅川月は一拍遅れて理解した。

沈村蓮のやり方は容赦がなかった。鈴原明志は確実に病院行き。しかも周りに人が多い。隠しようがない。

鈴原明志の知名度を考えれば、トレンド入りは確定。世論は沈村蓮に不利に傾く――はずだった。

でも、廊下には監視カメラがある。先に挑発してきたのが鈴原明志と葉山詩音だと示せるなら、火消しは難しくない。

浅川月はすぐスマホを取り出し、同僚に電話をかける。状況を手短に伝え、至急で映像を確保するよう頼んだ。誰かに消されたら終わりだ。

同僚が信じられない、という反応を返してきたのを聞き、浅川月は満足げに通話を切る。自分の見識が浅いんじゃない。沈村蓮が規格外なだけだ。

ふと、浅川月は胸が熱くなった。

「沈村蓮……ほんとは私のために出てくれたんでしょ。巻き込んじゃったら悪いと思ってた」

沈村蓮は顔も上げない。

「……? 出るって何」

「さっきだよ! 鈴原明志が私を殴ろうとしたから、あんたが殴ったんじゃん!」

「違う」

沈村蓮は返信を打ちながら、さらりと言った。

「六年前から一回殴りたいと思ってた。今日、やっと叶っただけ」

浅川月は即答。

「信じない」

六年前に沈村蓮が鈴原明志を知ってるわけがない。

浅川月は目を潤ませ、勝手に感動していく。

「隠さなくていいよ。わかってる。あんたってそういう人。口は悪いのに優しい。助けたのに言わないタイプ! いいの、私、理解してるから! 今日から私たち、親友ね!」

沈村蓮は一瞬だけ指を止めた。

「……好きにして」

ほどなくして、鈴原明志が病院に運ばれた件は案の定トレンド入りした。続けて沈村蓮の名前も引っ張り出され、さらに「沈村蓮が鈴原明志を蹴り飛ばした」写真まで添えられている。

鈴原明志のファンは戦闘力が高い。沈村蓮のSNSに押し寄せて罵倒を浴びせ、勢いはそのままトレンド1位へ。

浅川月は想定済みだった。慌てず騒がず、同僚と電話で段取りを組み、淡々と処理を進めていく。

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