第9章

その頃。

病院での検査結果が出た。鈴原明志は肋骨に軽いひびが入り、内臓にも出血の兆候があるという。しばらく入院して経過観察が必要だった。

葉山詩音は申し訳なさそうに俯き、涙ぐむ声で言う。

「明志お兄さん……全部、詩音のせいです。詩音がいなければ、沈村蓮もあなたに八つ当たりなんてしなくて……こんなとばっちり、受けさせなかったのに……」

沈村蓮の名が出た瞬間、鈴原明志の表情が露骨に険しくなる。けれど詩音に向ける声だけは、やけに優しかった。

「おまえのせいなわけないだろ。悪いのは沈村蓮のあのクズだ。俺に手を出したんだぞ? 国内の芸能界で、もう居場所なんてなくしてやる」

葉山詩音の胸が、ぱっと明るくなる。

盛川を背負っていようが関係ない。

鈴原家の権勢に、葉山家もつく。沈村蓮は終わりだ。

ほどなくしてマネージャーが駆けつけ、青い顔で鈴原明志を気遣ったあと、田山監督のバラエティの件を切り出した。

ここ数日、葉山詩音は世間の風当たりが強かった。それでも葉山家が手を回し、なんとか番組には残している。

さらに葉山和也は、葉山詩音と鈴原明志の「カップル売り」の熱量で、先日の黒い噂を押し流すつもりだった。だからこそ、鈴原明志にも出演を頼んだのだ。

鈴原明志は本来、話題作りのためにバラエティへ出るタイプじゃない。だが詩音のためと知るや、迷いなく承諾した。ギャラはほとんど要らないどころか、逆に持ち出しまでして、元々の出演者枠を押しのけてねじ込んだほどだ。

今日は番組側と契約を交わす予定だった――それがこの騒ぎで台無しになった。契約は未締結、しかも本人は負傷。収録に支障が出るのは避けられない。

すでに番組側からは電話が来ている。契約は結べるのか、と。大きな企画が鈴原明志ひとりの都合で止まるはずもない。

葉山詩音は不安を胸に押し込み、表情には出さず、か弱く微笑んだ。

「来週にはもう生配信の収録が始まりますけど……明志お兄さん、身体が一番です。無理なら無理で……詩音ひとりでも沈村蓮と向き合えますし、できるだけいじめられないように気をつけますから……」

鈴原明志は痛みに顔を歪め、さっきまで「少し休むか」と思いかけていたのに、その言葉を聞いた途端、勢いよく身を起こしかけた。

「平気だ! たかが一発蹴られたくらいで何がどうなる。詩音、安心しろ。俺が一緒に出る。沈村蓮が俺の前でおまえをいじめる? 寝言は寝て言え」

マネージャーが慌てて止めようとしたが、鈴原明志に睨み返され、言葉が喉で潰れた。

結局、急かされる形でマネージャーは渋々番組側へ向かい、契約の手続きを進めることになった。

しばらくして、鈴原明志の両親も病室に駆け込んできた。青白い顔でベッドに横たわる息子を見た瞬間、母親は目に涙を浮かべ、父親も唇を固く結んだ。

犯人が沈村蓮だと聞くと、二人とも露骨に顔色を落とす。

だが沈村蓮本人の連絡先は知らない。鈴原家は沈村梅子へ直接電話を入れ、重い口調で説明を求めた。

両家の関係はもともと悪くなかった。葉山詩音が幼い頃から優秀だったこともあり、鈴原父母は詩音に好感を持っていて、葉山家の人間にも普段は穏やかだった。

それが、今回ばかりは初めての強い言葉だった。

美容施術の最中だった沈村梅子は、電話口で一瞬固まった。切って事情を確認した途端、顔から血の気が引く。

鈴原明志は、彼女がずっと「将来の婿」と決めていた相手だ。沈村蓮が手を出すなんて――どこまで手のかかる子なの。

沈村梅子はすぐ沈村蓮へ電話をかけ、問い詰めようとした。

だが、繋がらない。

沈村蓮に番号をブロックされていた。

胸の奥に怒りが詰まり、沈村梅子は堪えきれずスマホを床へ叩きつけた。ガンッ、と鈍い音。そばのスタッフがびくりと肩を跳ねさせる。

病室では、鈴原母が息子の手を握りしめたまま言った。

「この病院にね、整形外科も内科もすごく得意な先生がいるって聞いたの。たくさん治してきた人らしいのよ。明志に後遺症が残ったら困るでしょう? 一度診てもらえないかしら」

鈴原父も取引先から噂を聞いたことがあった。居場所が定まらず、手術費用も破格だが、成功率は本当に百パーセント。T市からわざわざ頼みに来る人もいる、と。

「息子が最優先だ。病院の上の人間に当たって、連絡先を聞いてくる」

鈴原父はそう言い残し、足早に病室を出ていった。

葉山詩音は、皆が肝心なところに触れていないのを見て、わざとらしく視線を落とす。

「おばさん……心配しないでください。明志お兄さんはきっと良くなります。それと、厚かましいんですけど……お姉さんのこと、少しだけ許してあげてほしくて。お姉さんも……きっと、わざとじゃ……」

鈴原母の怒りが一気に燃え上がった。

「わざとよ! 同じ葉山家の娘なのに、どうしてあの子はあなたとあんなに違うの? うちの息子に怪我をさせたんだから、代償は払わせるわ」

「でも……」葉山詩音は困ったように眉を下げる。「お姉さんは盛川株式会社の所属で、葉山家の芸能事務所じゃないんです。詩音が謝りに来てって言っても……きっと、聞いてくれなくて……」

鈴原母は鼻で笑った。

「盛川? だから何。S市じゃ、鈴原家が決めるのよ」

そう言うなり、鈴原母はスマホを取り出して電話をかけた。

……

沈村蓮の件は、ツイッターのトレンドに長くは残らなかった。浅川月と盛川の広報が動き、火種は手早く潰される。

決定打は監視カメラの映像だった。

映像が出た瞬間、相手は完全に不意を突かれ、流れは一気に反転する。黙るしかなくなったユーザーも多い。最後まで騒いでいたのは、鈴原明志と葉山詩音の「単推し」くらいだった。

相手側もすぐ声明を出した。

沈村蓮と葉山詩音には以前から確執があり、鈴原明志は詩音のために黙っていられなかった――そんな筋書きで、行間のすべてが「悪いのは沈村蓮」と言わんばかりだ。

その声明に乗っかり、二人のカップル推しが擁護を続ける。

とはいえ世論はもう大勢ではない。沈村蓮が以前のように袋叩きにされる状況ではなかった。

沈村蓮本人はネットを見ていない。

浅川月からの電話を受けるなり、相手は怒りで声が裏返った。

「鈴原明志たち、ほんっとに面の皮が厚い! あなたを傷害の故意で訴えるって、弁護士名義の内容証明まで送ってきた!」

浅川月は怒りすぎて、逆に笑いそうになっている。

「裁判? やればいいじゃない。こっちだって訴える。今までの名誉毀損、挑発、暴力――全部、証拠があるんだから!」

沈村蓮は冷蔵庫を開け、キンキンに冷えたコーラを一本取り出した。プルタブを引くと、ぷしゅっと小気味いい音がする。

「盛川は、私のこと面倒だって思わない?」

浅川月は声を弾ませる。

「会社はあなたを本気で育てる気だよ。今日の午後、上から言われたんだから。『どんな手を使ってでも守れ』って。沈村蓮、やっと運が向いてきたね!」

沈村蓮は「ふうん」とだけ返し、淡々と言った。

「弁護士が必要なら言って。腕のいい人、知ってる」

「誰?」浅川月が食いつく。今まで沈村蓮から、弁護士の話なんて聞いたことがない。

「周防覚」

「へえ、周防……え? 誰?」

浅川月は途中で言葉が止まり、聞き間違いを疑う。

沈村蓮は鼻先をふっと動かし、ベランダの方へ視線を向けた。どこか漫然とした口調のまま続ける。

「周防覚。たしか、事務所もやってる」

浅川月は息を呑んだ。

その周防覚だ。

若いのに業界で名が知れ渡り、担当した案件は無敗。大物芸能人や外資企業とも組んできた、いわゆる「トップ弁護士」。

盛川ですら、簡単には頼めない相手だ。

浅川月は信じられない声で言う。

「沈村蓮……本当に周防覚と知り合いなの? どうやって?」

沈村蓮はベランダへ歩きながら、淡々と答えた。

「昔、学校にいた頃。私の指導教員と、彼の師匠が知り合いでね。絵の仕事で揉めたとき、助けてもらった」

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