第1章 葬式
横尾家の祖母の葬儀当日。
孫嫁である南雲玲奈は、本来なら夫の横尾孝人と並んで弔問に向かうはずだった。けれど孝人は、彼女と娘の香澄など眼中にない。初恋の相手である中島美奈をもてなすことに夢中で――まるで再婚の発表会でも開いているかのようだった。
今日の弔問客は多い。
政財界の名士に加え、マスコミの姿も目立つ。
会場ではフラッシュが絶えず焚かれ、カメラのレンズが孝人と美奈へと向けられていた。
「え、あれが噂の横尾家の若奥様? 社長と並ぶとお似合いじゃない。坊ちゃんもかわいい」
「若奥様って滅多に表に出ないって聞いたけど……上品だよね。上がれないんじゃなくて、誰にも見せたくないほど大切にしているだけだ。ほら、二人の目線……相当仲が良さそう」
「いや、若奥様はあっちだろ。遺影の前にいる人」
「え? じゃあ……なんで社長の隣にいないの?」
「隣の中島さん、社長の初恋の人らしいよ。数年前に海外に行って、身分もすごいって。向こうで会社まで立ち上げて、最近帰国したんだとか」
「聞いた話じゃ、当時は若奥様が、祖母さんに気に入られてるのをいいことに無理やり結婚したんだって。二人の縁を壊したから、中島さんは傷ついて適当に結婚したとか」
「略奪で妻になったって? そりゃ嫌われるし、追い出されても仕方ないよな……」
囁きが耳に刺さり、玲奈の心臓がぎゅっと縮んだ。刃物で突き刺されたみたいに痛い。
顔を上げれば、浴びせられるのは侮蔑と嘲りの視線ばかり。頬の血の気が引いた。
視線の先――少し離れた場所に、横尾孝人がいる。
背筋を伸ばし、斎場の前方に立つ孝人は、黒のスーツに黒のカシミヤコート。人を寄せつけない冷えた気配を纏っていた。
端正な顔は無表情で、ただ眉と眼差しだけが冷たさを帯びるように、かすかな悲しみを滲ませている。
――けれど。
中島美奈が現れた瞬間、その凍てついた瞳の氷はほどけ、雪解け水みたいなやわらかさが混じった。孝人はすぐに美奈と子どもを伴い、遺影に向かって手を合わせた
その間、玲奈と香澄には、目線ひとつくれなかった。
胸の奥に苦みが広がる。
玲奈と孝人の結婚が、祖母の強い後押しで成立したのは事実だ。
数年前、孝人は交通事故に遭い、両脚に障害が残った。心まで折れて、荒んでいた。
孫を案じた祖母が、彼の治療のために玲奈を雇ったのだ。
玲奈は力を尽くし、寄り添い、励まし、闇から引き上げた。
孝人が回復した夜、横尾家は祝賀パーティーを開いた。
そのとき彼は酔っていて、玲奈を抱きしめたまま、何度も呼んだ。
「ミレ、ミレ……」
玲奈は心を奪われ、うれしさに溺れた。身も心も、すべて差し出した。
その後妊娠し、祖母の望みで結婚した。
今、香澄は三歳。
それなのに――彼に初恋の相手がいたなんて、今日初めて知った。
中島美奈……。
ミ……。
玲奈はふいに不安になる。あの夜、彼が呼んだのは本当に「ミレ」だったのか。それとも「ミナ」だったのか。
ぼんやりしているうちに、美奈は弔問を終えて参列者の席へ戻った。
ようやく孝人が少しだけこちらに注意を割き、玲奈の前へ来る。
「今日はマスコミが多い。香澄から目を離すな。祖母の葬儀で、問題を起こされたくない」
忠告――いや、警告。
さっきまで柔らかかった眼差しは、もう冷たく沈んでいた。
玲奈の胸が冷え切る。何か言いたいのに、喉で止まった。
祖母は玲奈に優しかった。だからこそ、静かに見送ってやりたい。
ここは話をする場所じゃない。
玲奈は目を伏せ、香澄の手を取り、斎場の外にある遺族控室へ下がった。
孝人は無言の玲奈に眉をひそめ、不快そうにしたが――すぐ関心を失ったように元の位置へ戻り、美奈の隣に立つ。
泣き腫らした美奈に、彼は携帯していたハンカチを差し出した。
場違いなほど、甘い空気。
誰もが二人に注目していたせいで、そばの小さな男の子がこっそり外へ出ていったことに気づかなかった。
その子はキョロキョロしながら控室へ――。
玲奈は香澄を抱き、まだ悲しみに沈んでいた。
そのとき、突然扉が乱暴に開かれ、「バンッ」と大きな音がした。
香澄がびくっと震える。明らかに怯えた。
玲奈は反射的に立ち上がり、入口へ目を向けた。
美奈の息子――理玖が、ふんぞり返って入ってくると、香澄をじろじろ見回した。
そして悪戯っぽく笑う。
「おばさん、これが横尾パパとの娘? 頭が変だって聞いたけど、本当?」
玲奈は言葉を失った。三歳の子の口から出る内容じゃない。
しかも――横尾パパ?
胸の底が沈む。玲奈は香澄を背に庇い、冷たい目で睨んだ。
「……誰にそんなこと教わったの?」
香澄が自閉症だと知っている者は少ない。なぜこの子が――。孝人が教えたの?
理玖は図に乗り、畳みかける。
「なんでしゃべらないの? 口がきけないの? バカなの? それとも頭がおかしいの?」
次々と投げつけたあと、得意げに言い放つ。
「だから横尾パパも、みんなも、こいつ嫌いなんだ」
玲奈の顔色が変わった。
母親の本能が、怒りとなって噴き上がる。
「あなた……本当に躾がなってない! どうしてそんな子になるの?」
理玖は怯えない。むしろ得意そうだ。
「だって違うの?」
「今すぐ出て行きなさい!」
怒りに任せ、玲奈は理玖の手を掴んで外へ引っ張ろうとした。
香澄に聞かせたくなかった。
幸い、香澄は手の小さな花に視線を落とし、男の子の言葉を拾っていない。
「やだね。こいつが俺に勝てるとこ、見てやる。横尾パパは俺のことだけ好きなんだ。こいつなんか好きになるわけない」
叫び続ける理玖の口を、玲奈は思わず手で塞いだ。
「出て行け!」
腕を掴み、引きずる。理玖が甲高く叫んだ。
その騒ぎはすぐ斎場側の注意を引き、マスコミが駆けつけてレンズを向ける。
そこへ素早く影が寄り、扉を閉めた。
横尾孝人だ。
眉を深く寄せ、上から見下ろすように怒鳴る。
「南雲玲奈、何をしている。子どもに乱暴するな。今すぐ理玖を放せ」
玲奈は怒りに震え、声を張り上げた。
「この子が勝手に来て、香澄を侮辱したんです! 私は出て行かせようとしただけ!」
しかし孝人は冷たく遮った。
「嘘をつくな。理玖は帰国したばかりで、今日初めて香澄に会った。悪意で罵るはずがない」
彼の目には、玲奈への不信しかなかった。
「違う……」
言い返そうとした瞬間、冷たい視線が水を浴びせるように刺さり、玲奈の心は暗く沈んだ。
彼は、信じない。
玲奈は理玖から手を離し、黙って香澄を抱きしめる。
心は凍りついたようだった。
そこへ横尾家の人間も駆けつける。
姑の横尾浅子が、嫌悪を隠さずに責めた。
「南雲玲奈、今日に限って騒ぎを起こして、母さんを安心して送り出せないようにする気? 本当にみっともない」
孝人の弟――横尾彰人も鼻で笑う。
「理玖は美奈さんの息子だぞ。何を根拠に言いがかりつけてる? 嫉妬だろ。葬儀で恥さらしするくらいなら、出て行けよ」
冷たい視線の雨。
胸が刺すように痛む。
――誰も、信じない。
「香澄をちゃんと見てろ。もうすぐ参列者への挨拶だ。これ以上迷惑をかけるな」
孝人の声は温度がない。
玲奈は彼の目をまっすぐ見て、皮肉に笑った。
「ここに、私を遺族だと思ってる人がいる? 横尾家で私を孫嫁として認めたの、おばあちゃんだけだった。
よその子が香澄を罵ってるのに、あなたは事情も聞かず庇う。あなたの中に、娘はいるの?」
目に深い悲しみが滲む。
「横尾孝人……あなた、報いを受ける」
もう一秒たりとも居られなかった。玲奈は香澄を抱き上げ、葬儀場を後にした。
背後で孝人の顔が険しく沈み、眉間に怒りが刻まれる。
火葬場の外は、雨混じりの風が刃物みたいに冷たい。
それが肌を切るたび、心臓にも穴が開く気がした。
玲奈は一人で香澄を抱き、路肩に立ち尽くす。血の気のない顔。
本当は最後まで参列し、おばあちゃんを見送りたかった。
けれど横尾家の冷たさは底知れない。
孝人の振る舞いは、四年の結婚を地に投げ捨て、踏みにじった。
失望が極まって、ひとつの事実を認めざるを得ない。
あの夜、孝人が呼んだのは――自分の名ではなかった。
目を覚まさなきゃ。
