第2章 横尾孝人、離婚しましょう
葬儀は、その日の午後に終わった。
けれど横尾孝人は――一晩経っても帰ってこなかった。
翌朝早く。南雲玲奈はニュース番組の速報で、横尾孝人の姿を目にする。
【横尾グループと中島グループ、戦略的パートナーシップを提携を発表】
玲奈は、わずかに息を止めた。
中島家の現責任者は、つい先日帰国したばかりの中島美奈――だったはずだ。
映像の中で、横尾孝人と中島美奈は寄り添うように並び、カメラは二人を執拗に追い続けている。
その光景に、玲奈は見覚えがあった。
昨日の葬儀と、まるで同じだ。
コメント欄を開けば、称賛の嵐。
「またタカヒナだ、やっぱお似合いすぎ!!!」
「これが本物の名門同士の縁談だよな。美男美女で最強」
「中島さん、美しいだけじゃなく実力もあるとか……」
玲奈はスマホを強く握りしめ、薄く笑った。
笑うしかないほど、皮肉だった。
知らないうちに、あの二人は“公認のカップル”になっていたのだ。
横尾孝人はもともと表に出ない男だ。
それが今は、初恋の相手を連れて堂々と人前に立っている。
一方の玲奈は、横尾グループの研究室を長年黙々と切り盛りしてきたのに、二人の関係を知るのは社内でもごく一部。
会社の他のことも、彼は知らせない。玲奈に触れさせようともしない。
玲奈はニュース画面を閉じた。胸がちくりと痛む。
けれど、その痛みすら、もう麻痺しかけていた。
――いずれ、この程度の痛みにも慣れるのだろう。
夕方。横尾孝人がようやく帰宅した。
一晩帰らなかったのに、服はきっちり着替えてある。
誰が替えたのか。玲奈はもう、詮索する気にもなれなかった。
端正な顔立ち。スラックスに包まれた長い脚。
数歩で距離を詰めてきて、ほのかに、知らない香水の匂いを連れてくる。
胃の奥がむかつき、玲奈が身を引こうとした瞬間――横尾孝人が淡々と言った。
「香澄の状態が不安定だ。おまえの研究室は空けろ。別の手配をする。これからは家で香澄を見ていればいい」
玲奈は、凍りついた。
返事をする間もなく、彼は続ける。
「横尾グループと中島家は戦略協力に入った。誠意のためにも研究室の件は美奈に任せる。
海外の大規模ラボで働いていた。経験で言えば、おまえより豊富だ」
相談ではない。通達だった。
玲奈の指先がぎゅっと握り締まり、胸の内に苦さが広がっていく。
彼女は専業主婦じゃない。
横尾孝人のために、横尾グループの『AI医療機器』システムラボへ入り、管理を担ってきた。
本来なら自分のキャリアがあった。得意なのは医薬の研究開発だ。
それを――彼は、簡単に奪う。
「横尾孝人……私が研究室に注いだ時間と労力、分かってるの? 開発部が今の規模になったのは、私がチームを率いて、何晩も徹夜して……積み上げてきたからでしょう」
声が震える。喉の奥が痛い。
「それをどうして……そんな簡単に、全部消せるの?」
無視、冷淡、香澄への無関心。
それだけでも、結婚への失望はとうに溜まり切っていた。
けれど、これは――彼女の努力そのものを、破壊する行為だ。
愛は価値のないものとして踏みにじられ、床に投げ捨てられる。
玲奈の目が熱くなる。
葬儀で席を譲り、仕事でも席を譲る。次はきっと――横尾夫人の座、だ。
玲奈は現実を飲み込み、ようやく言葉を探した。
「横尾孝人、私たち……」
――離婚しよう。
そう言いかけたのに、横尾孝人は聞く気すらなく遮った。
「そんな被害者面をするな。この決定はよく考えた。
仕事に気を取られて香澄を十分に見られないから、状態が良くならない。母親として失格だ。
だから覆らない。……おまえのためでもある」
言い終えると、彼は玲奈の横を通り過ぎる。
「先に風呂に入る。落ち着け」
玲奈はその場に立ち尽くし、口を開かなかった。
――おまえのため。
どれほど滑稽な言葉だろう。初恋の相手に場所を譲るための口実を、ここまで立派に飾れるなんて。
玲奈の手元には、新しく開発したシステムがある。
最先端技術で作り、検証も重ね、ほぼ完成していた。実用化できれば、横尾グループに莫大な利益をもたらす。
本当は横尾孝人への“驚き”として渡すつもりだった。
でも今は――必要がない。
離婚の言葉を口にする必要もない。離婚協議書を渡せばいいだけだ。
横尾孝人、後悔しないで。
横尾孝人が入浴している間に、玲奈は書斎で離婚協議書を作った。
頭は混乱していたが、望みはただ一つ――早く終わらせること。
書いた条項は最重要の一つだけ。
香澄の親権は、必ず女方が持つものとする。
印刷して紙を手に取ったとき、さっきまでの震えが嘘みたいに消えていた。
迷いも、消えていた。
玲奈は署名し、指印まで押す。
彼がまだ風呂にいるうちに、協議書をテーブルのいちばん目立つ場所へ置いた。
一目で気づくはずだ。
