第3章 謎の大物が香澄を救う

書類を置き終えると、南雲玲奈はそのまま娘のそばへ戻り、身の回りの世話をしながら待った。

横尾孝人が――離婚について、もっと具体的に話し合いに来るはずだと。

けれど、いくら時間が経っても聞こえてくるのは、リビングで電話に出る声だけ。

玲奈が一度も耳にしたことのないほど、やわらかい口調だった。

続いて、男が慌ただしく出ていく足音。

不安に駆られ、玲奈は寝室へ戻ってテーブルを見た。

置いたままの離婚協議書は――手つかず。

(気づいてない……?)

眉間がきゅっと寄る。焦りが胸の奥をざわつかせ、今すぐ電話をかけて、全部はっきり言ってしまいたくなる。

それでも、玲奈はぐっと堪えた。

離婚なんて、結局は顔を合わせて話すしかない。

今夜見なかったなら、明日か明後日には目に入る。――必ず。

反正、この婚は終わらせる。玲奈はもう決めていた。

……。

その夜も、横尾孝人は帰ってこなかった。

翌朝。目を覚ました玲奈は、香澄の様子がおかしいことに気づく。

顔色が冴えず、ぼんやりと力が抜けたみたいで、元気がない。

胸がひやりとして、玲奈はすぐに心理カウンセラーの江口里奈へ連絡し、定期チェックに来てもらうことにした。

江口里奈は、孝人が高額で招いた“海外帰りの心理学博士”。

業界でも評価が高く、権威ある機関からも認められている――そう聞かされていた。

けれど。

長い期間をかけて治療しているのに、香澄の状態はほとんど変わっていない。

江口里奈が到着すると、玲奈は我慢しきれずに切り出した。

「江口先生。香澄の治療、もうかなりの期間になりますよね。……でも、このプラン、効果がまるで見えないんです」

江口里奈は、もともと高慢で冷たい印象の女だった。

疑いの言葉が落ちた瞬間、まるで尻尾を踏まれた猫のように顔色を変える。

「あなたが心理カウンセラー? 私が心理カウンセラー? 横尾社長がわざわざ招いた私を、あなたごときが疑う資格があるんですか」

思わぬ剣幕に玲奈も苛立つ。声を落とし、冷たく返した。

「疑いたくて疑ってるんじゃありません。香澄が良くなってないのは事実です。母親として聞くのは当然でしょう。……先生、本当に専門家なんですか」

その一言が、江口里奈のプライドを貫いたのだろう。

彼女は勢いよく立ち上がり、玲奈を鋭く睨みつける。

「玲奈さん。そこまで言うなら、他を当たせばいい。私はもう診ません。――あとで後悔しても知りませんよ」

ヒールがカツカツと床を叩き、怒りを撒き散らすように去っていった。

十分後。案の定、横尾孝人から電話がかかってくる。

玲奈の予想通りだ。

「南雲玲奈。おまえ、何がしたい。どうして江口先生を追い返した」

氷みたいな声。温度なんて欠片もない。

胸の奥が詰まるのを感じながら、玲奈は淡々と答えた。

「効果が出てないから言っただけです。少し指摘されただけで投げ出して帰るなら、どっちの問題ですか」

だが孝人は、説明を聞く気すらない。

「いい加減にしろ。江口先生の実力は業界が認めている。疑っているのはおまえだけだ。香澄を治したいのか?

今すぐ電話して謝罪して、戻ってもらえ」

針で刺されるみたいに痛かった。

孝人は最初から最後まで、香澄の容体を一度も訊かない。

玲奈に頭を下げさせることだけが目的だ。

――妻や娘より、他人が大事。

どうしてあの頃、あんなにも盲目だったのだろう。魂でも抜かれたみたいに、孝人にすがっていた。

けれど、今ならまだ遅くない。

玲奈は指を強く握り、冷たく言い切った。

「謝りません。私は香澄の母親です。娘の治療を誰に任せるか、決める権利があります。来たくないならそれで結構です」

通話を切る。これ以上、あの男の声を聞きたくなかった。

その後、玲奈は香澄を連れて、家の中の専用「キッズパーク」で遊んだ。

ここは、おばあちゃんが生きていた頃、玲奈と一緒に香澄のために作ってくれた場所だ。

香澄は人と関わるより、一人で過ごすほうを好む。

だから玩具も遊具も、香澄が安心できるように二人で考え抜いて揃えた。

香澄はすぐに没頭していく。

その姿を見ながら、玲奈は決意した。

江口里奈に、これ以上香澄を任せられない。

どんな手を使ってでも、今すぐ別の心理カウンセラーを探す。

玲奈は書斎へ入り、パソコンを立ち上げて国内外の専門家の情報を片っ端から調べ始めた。

けれど、現実は甘くない。

香澄は一歳の頃に自閉症と診断されて以来、横尾家は全国の名医を訪ね、何人も招いてきた。

それでも成果は薄く、決定打が見つからない。

探して、探して――ため息が増えるばかり。

そこへ、親友の志村千夏から電話が入った。

横尾婆さんの訃報を聞き、玲奈を気遣ってくれたのだ。

「玲奈、無理しないで。横尾婆さんだって、あなたが悲しみに潰れるのは望んでないよ」

葬儀場を飛び出してしまい、最後まで見送れなかったことが胸を刺す。鼻の奥がつんとした。

それでも玲奈は、できるだけ平静を装って答える。

「うん、分かってる」

千夏は優しく続けた。

「いい子。泣かないで。横尾婆さんがいなくなっても、玲奈には私がいるし、香澄ちゃんもいる」

そしてふと、尋ねる。

「そういえば、香澄ちゃん最近どう? 少しは落ち着いてきた?」

玲奈は小さく首を振った。

「それが……あんまり良くない。ちょうど聞きたかったんだけど、千夏って人脈広いでしょ。腕のいい心理カウンセラー、知らない? ずっと改善しなくて、心配で」

千夏は少し考え込むように沈黙し――数秒後、声を弾ませた。

「いるよ。……本当に一人だけ」

玲奈の心臓が跳ねる。

「本当? 紹介してくれる?」

「それがね……難しいの。私も噂で聞いただけなんだけど、とんでもなく優秀らしくて。権力者が取り合ってるって話。国内の軍部まで必死でスカウトしてるって」

千夏は慎重に言葉を選びながら続ける。

「ただ、本人の行方がつかめなくて連絡方法が分からない。今のところ私も追えてない。でも、もし見つけられたら――香澄ちゃんは良くなるって断言できる」

玲奈の胸の奥が、かすかに熱くなった。

期待するのが怖い。それでも、心が勝手に前を向く。

「千夏……その先生、そんなにすごいの? 江口先生みたいに、有名なだけってことない?」

「大丈夫。絶対に本物。治療実績も、今度ちゃんと話すよ」

千夏は玲奈の焦りを見透かしたように、やわらかく釘を刺す。

「今は焦らないで。私が必ず情報を探って、分かったらすぐ知らせる。いい?」

玲奈は静かに頷いた。

「うん。お願い」

すぐに事が動かないのは、分かっている。

香澄が一歳で診断されてから、玲奈はずっと“奇跡”を待ってきた。

待つことには慣れている。

数日増えるくらい――どうってことない。

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