第5章 決着
彼女が駆けつけた瞬間、男のスマホがちょうど鳴った。
彼は端末を取り出すなり、足早にその場を離れていく。
南雲玲奈が捉えられたのは、すらりと伸びた背と、凛とした気品をまとった後ろ姿だけだった。
それどころじゃない。玲奈は視線を引き戻し、宝物みたいな娘の無事を確かめる。
「香澄、どこか痛くない? ぶつけた?」
前にいる娘を、焦るように上下から見回す。
香澄は少しぼんやりしていて、反応がワンテンポ遅れた。やがて小さく震える幼い声で、ぽつりと答える。
「……だいじょぶ。おじさん……香澄、うけた……」
玲奈は胸の奥の息を、ようやく吐き出した。怪我はない。よかった。
「うん、ママも見た。おじさんが助けてくれたの」
香澄はこくん、と小さな頭を縦に振る。
「いっちゃった……ありがとう、いえなかった……」
玲奈も悔しかった。あまりにも去るのが早くて、顔すらまともに見えなかったのだ。
「香澄、顔、覚えてる? 覚えてたら、次に会ったらお礼言おうね」
香澄はまたこくん、と頷いてから、間を置いて呟く。
「覚えた……おじさん、かっこいい……」
玲奈はわずかに目を見開いた。
香澄は外の世界への反応が薄く、普段は人の見た目に興味を示さない。知らない人を「かっこいい」と言うなんて、初めてだ。
助けられたことで、心が揺れたのだろう。
玲奈は娘の頭をくしゃりと撫で、甘やかすように言った。
「そっか。じゃあ、次に会ったら絶対わかるね……香澄、もう少し遊ぶ?」
香澄はこくりと頷き、さっきの出来事に怯えて引き下がることもなく、また前へ向かった。
玲奈はほっとして、娘を見送る。
――そのときだった。
横尾孝人から着信が入る。
「今日、引き継ぎに来いって言っただろう。なんで来なかった」
胸がひゅっと縮む。玲奈はようやく思い出し、冷めた声で答えた。
「香澄の調子があまり良くなくて。私は――」
だが孝人は不機嫌に遮った。
「南雲玲奈、俺は忙しい。そんな引き延ばしに付き合う暇はない。香澄を理由にしても、決定は変えない。明日の朝、必ず会社に来て引き継げ」
冷たい通告。そう言い捨てると、返事も待たずに通話を切った。
ツーツーという無機質な音だけが耳に残る。玲奈の指先が冷え、手足から熱が奪われていった。
香澄の具合を、一言も訊かない。
ただ「娘を盾にしてる」と決めつけているだけ。
胸の奥に酸っぱい痛みが滲む。それでも玲奈は深く息を飲み込み、感情ごと押し込めてスマホをしまった。
――なら、明日で終わらせよう。
……。
翌朝、南雲玲奈は約束通り横尾グループへ向かい、業務の引き継ぎに入った。
開発部へ足を踏み入れた瞬間、目に飛び込んできたのは――自分の席に座る中島美奈だった。
知的に整えられた身なり。白いシャネル風のセットアップが、清楚で上品な雰囲気を際立たせる。花みたいに、目を引く。
玲奈の指先が、きゅっと強張った。
自分は横尾孝人のために、不慣れな領域へ飛び込み、時間も心もすり減らしてきた。覚えてくれなくてもいい。けれど、追い出されるとは思わなかった。
玲奈は一度まぶたを伏せる。
――もういい。
孝人に紐づくものに、未練を抱く理由はない。
そう心を整え、玲奈は中へ入った。
オフィスの中で美奈は足音に気づき、すぐ顔を上げる。さっきまでの穏やかな表情が、玲奈を見た瞬間、すっと冷える。
「遅いわね。南雲さんって、基本の時間感覚もないの? それともまた引き延ばし? そんなことして、孝人が心を動かすとでも思ってるの?」
玲奈は少しだけ意外だった。遠目に見た印象は、こんな露骨じゃなかったからだ。
――人前と裏で顔が違うタイプ。
玲奈は淡々と返す。
「始業は9時です。今は8時58分。時間感覚に問題はありません。待てないなら、待たなければいいだけです」
美奈が鼻で笑うように口角を上げた。軽蔑の色が浮かぶ。
「孝人が言ったの。今日から研究室の管理権は私に移るって。そんな言い方で私が退くと思って?」
そして上から押し付けるように命じる。
「無駄口はいいから、さっさと引き継いで。孝人、進捗報告を待ってるのよ」
自慢げな響きが胸を刺す。だが玲奈は顔に出さない。こんな女を得意にさせる必要はない。
仕事への責任として、玲奈は冷静に、丁寧に、手順通り説明を始めた。できるだけ詳細に。最後まで、きれいに終わらせたかった。
だが途中で、美奈が露骨に苛立ったように言い放つ。
「もういい。あなたの説明、分かったから」
玲奈は眉を寄せる。
「まだ重要な研究方向が――」
「古いデータでしょ? 聞く必要ある? 私が完全に引き継いだら、時代遅れは全部切る。孝人が私を呼んだのも、そのためよ」
美奈は椅子から立ち上がり、見下ろすように告げた。
「もう出て行って」
玲奈は唇を動かしかけ、結局、冷たく笑った。
「分かりました。受け止められるといいですね」
開発部の引き継ぎ量を、彼女は分かっていない。玲奈は3年かけて積み上げた。数日で終わるような代物じゃない。
美奈の顔色が沈む。
「どういう意味? 私の能力を疑ってるの? でも――孝人は私を選んだ」
勝ち誇った目で、さらに追い打ちをかける。
「南雲玲奈。会社も、彼も、あなたが触れられるものじゃないって分かったでしょう」
玲奈はその小物じみた得意顔を見て、温度のない声で返した。
「触れたのを後悔してます。純粋で気高いダイヤだと思ったら、最初から汚れてただけだった」
美奈の眉が吊り上がる。
「何が言いたいの?」
玲奈は薄く笑い、刺すように言った。
「別に。分からないならそれでいいです」
一拍置き、玲奈は淡々と続ける。
「ただ気になるのは――そこまで横尾孝人が大事なら、当時どうして別の人と結婚して、子どもまで作ったんですか。本当に愛してた? それとも……選択を間違えて、悔しくて戻ってきただけ?」
美奈の表情が一瞬揺れた。視線が泳ぐ。
玲奈はその動揺を見逃さず、鼻で笑う。
「やっぱりね。おばあちゃんが亡くなった途端、待ってましたとばかりに戻ってきた」
「あなた……!」
美奈は言い返そうとして、言葉を探すだけで終わった。
玲奈は確信する。――図星だ。
けれど、もうどうでもよかった。
横尾孝人が喜んで「受け皿」になるなら、勝手にすればいい。
