第6章 私は横尾孝人なんていらない

ほどなくして、南雲玲奈は自分の私物を手早くまとめると、いっさい立ち止まらずに歩き出した。

オフィスエリアを抜けると、社員たちの視線がいっせいに集まる。

けれど玲奈の表情に、落胆も悲しみもなかった。異様なほど静かで、凪いでいる。

――これも、解放なのだろう。

そもそも、この仕事が好きだったわけじゃない。

ただ自分が、愚かなくらい馬鹿だった。あの男のために、自分がいちばん得意なものを手放して。

足早にエレベーターを降りた、その瞬間。

正面から、横尾彰人が現れた。

玲奈が抱えた荷物を見て、彰人は鼻で笑う。

「誰かと思えば……捨て犬みたいじゃん。ああ、やっぱりお前かよ、南雲玲奈」

嘲りを含んだまま、言葉を続ける。

「どうだ? 追い出される気分は。前から言ってただろ、その席はお前のものじゃないって。研究室の責任者も、横尾家の若奥様もさ……どれもお前には不相応なんだよ。

美奈さんが戻った今、ようやく現実が見えたか?」

玲奈は彰人を見た。視線は氷みたいに冷たい。

昔は――横尾孝人を愛していたから。

この義弟にも、できる限りの善意を向けてきた。横尾家の人間にも頭を下げ、好かれようとさえした。

けれど、彰人は最初から最後まで、玲奈に容赦がなかった。

理由が分からなかった。

だが今、彼が中島美奈の名を口にした瞬間、瞳の奥に隠しきれない熱が灯るのを見て、すとんと腑に落ちる。

玲奈はふっと嗤った。

「ええ。見えたわ。前は『恩も分からない犬』だと思ってたけど――ただの『報われない貢ぎ役』だったのね」

彰人が目を剥く。

黙って耐えてきた女が、歯を立てた。

「……南雲玲奈。死にたいのか?」

「図星で痛かった?」

玲奈はわざとらしく首を傾げ、薄い戯れを瞳に混ぜた。

彰人の顔が怒りで歪む。

「お前に言われたくねえよ。お前こそ、兄貴が酔ってた隙に入り込んだ卑怯者だろ。だから愛されないんだ。今だって、美奈さんのために席を空けてやってる。

兄貴はな、お前みたいな汚い手が大嫌いなんだよ」

四年前のことを持ち出され、玲奈の頬から血の気が引く。

――孝人は、あの夜のことを。

自分が仕組んだと思っていたの?

……まあ、いい。

どんな誤解だろうと、もうどうでもいい。離婚するのだから。

彰人は勝ち誇ったように畳みかける。

「見てろよ。会社から追い出すだけじゃ終わらねえ。すぐ横尾家からも追い出される」

玲奈は、冷えたまま笑った。

「横尾彰人。よく聞いて。横尾家を出るかどうかを決めるのは、あなたたちじゃない。私よ。――私が、横尾孝人を要らないの」

一拍置いて、淡々と告げる。

「人に噛みついてる暇があるなら、少しは仕事を覚えたら? 陰で『役立たずのボンボン』って言われてるの、知らないの?」

言い捨てて、玲奈は軽い足取りで歩き出す。振り返らない。

背後で、彰人の顔が真っ黒に沈み――次の瞬間、爆発したように怒号が響いた。

……

会社を出て帰宅すると、玲奈はただ娘と向き合うことにした。

香澄は子ども部屋で、数日前に買ってきたレゴを真剣に組み立てている。使用人がそばで見守っていた。

だが難易度が高いらしく、手が止まるたび小さな顔に焦りが浮かぶ。

「香澄、焦らないで。ママが教える」

娘の前でだけ、玲奈の目はいつも優しい。

二人で少しずつ、ブロックを合わせていく。カチ、カチ、と小さな音が積み上がって、形になっていく。

……

横尾グループ。

中島美奈は、玲奈が去った直後に業務を引き継いだ。

玲奈がいなくなった後こそ、自分の腕を見せつけるつもりだった。誰もが振り向くほどの成果を、華々しく――。

けれど実際に触れてみれば、現実は違った。

引き継ぎが不十分で、把握できないデータが多い。

それに、いくつもの端末権限が制限され、思うように作業が進まない。

美奈の表情がひくりと強張る。

玲奈が最後に「重要な話」を切り出しかけたのを、自分が遮ったことを思い出した。

――でも、失敗を認めるわけにはいかない。

数秒で顔を整えると、美奈はエレベーターに乗り、最上階の社長室へ向かった。

秘書が内線で取り次ぐと、すぐに横尾孝人の声が返ってくる。

「入れ」

美奈はドアを開け、柔らかく呼んだ。

「孝人」

孝人は手元の書類を置き、眉目をやわらげる。

「どうした。引き継ぎ中だろ。順調か?」

「うん。引き継ぎ自体は……でも……」

美奈は視線を落とし、言いづらそうに言葉を濁す。

孝人の眉が寄る。

「でも? 玲奈が何かしたのか」

美奈は唇を噛み、首を振った。

「嫌がらせとかじゃないの。ただ、玲奈……気分がよくないみたいで。引き継ぎに抜けがあって……私、開けない権限が多くて、仕事が進められないの」

孝人の目が一気に冷える。

凍てつくような気配が、室内を沈ませた。

彼は立ち上がり、低い声で問う。

「玲奈はまだ会社にいるか」

「いえ、もう帰ったわ」

美奈は慌てて理解ある表情を作り、続ける。

「孝人、怒らないで。玲奈はわざとじゃないと思うの。私がもっと注意していれば……すぐ気づけたはずなのに――」

「庇うな」

孝人は遮り、不機嫌に言い切る。

「お前のせいじゃない。玲奈が意図的にやったに決まってる。美奈、この件は俺がケリをつける。先に戻って待ってろ。すぐ連絡する」

そう言うなり、彼は傍らのコートを掴んで羽織り、社長室を出ていった。

美奈はその長い背中を見送り、唇の端をゆるく上げる。

――狙い通り。

甘い、得意げな笑みが、静かに浮かんだ。

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