第9章 うん、好き
夕方、仕事終わりにみんなで連れ立って店へ向かっていたところ、ちょうど帰ろうとしていた中島美奈と鉢合わせたのが始まりだった。
彼女は「食事会なら私も参加したい」と、やけに熱心に言い出した。しかも「今日は私が奢る」とまで。
「そのとき社長も一緒にいらして……社長も来るってなって、私たち、断れなかったんです……。でも玲奈、信じて。あの場ではちゃんと『あなたの送別会』だって言いました。『歓迎会』なんて、誰も一言も言ってない……」
大村碧が早口で事情を説明する。南雲玲奈に誤解されるのが怖くてたまらない、そんな顔だった。
南雲玲奈は表情をわずかに曇らせたまま、すぐには返さない。
分かっている。
責めるべきは彼女たちじゃない。みんな善意だった。そこに中島美奈が、強引に割り込んできただけ。
――あの女、わざとだ。
個室の空気が、どろりと重くなる。
それでも中島美奈は、まるで何も感じていないかのように、横尾孝人の腕を当たり前みたいに引いて、空いていた二席へすっと腰を下ろした。
しかも、南雲玲奈と横尾孝人の間がきっちり離れる配置に、わざと。
柔らかい笑みを浮かべて、周囲へ尋ねる。
「みんな、もう注文した?」
「まだ……」
同僚たちは引きつった笑いで頷く。
「じゃあ、私が頼んでもいい? 迷惑じゃないでしょ」
横尾孝人がいる場で「迷惑です」なんて言える人間がいるはずもない。
中島美奈は、その“答え”を最初から分かった上で、わざとらしく場を丸める。
「このレストラン、詳しいの。高校の頃、孝人とよく来てたから。名物も分かるし、みんな、ぜひ食べてね」
そう言うなり、周りの反応も待たずに次々と注文を入れていく。
その途中、身を寄せるように横尾孝人へ顔を近づけ、甘えるような声で囁いた。
「ねえ、好み変わってないよね? 昔よく頼んでたの、いくつか入れたけど……まだ好き?」
横尾孝人の表情が、わずかに緩む。眉尻が柔らかく落ちた。
「……ああ。好きだ」
中島美奈が、くすっと無邪気に笑う。
そのやり取りを、全員が見ていた。
視線が交わり、誰もが言葉にせず頷く。
――噂は本当だ。
社長にとって、この新任部長は“特別”。
中には、もう頭の中で中島美奈の立ち位置を組み替えている人間もいる。
南雲玲奈は、胸の奥からじわじわと疲労がせり上がってくるのを感じた。
今夜の食事そのものが、急速に色を失っていく。
こんな空間にいたくない。
立ち上がって帰ろう――そう思った、その瞬間。
大村碧が別のメニューを手に取り、そっと差し出してくる。
「玲奈、魚好きだよね? あと酢豚も。私、頼んでおこうか?」
そのひと言で、ようやく皆の意識が現実へ引き戻された。
今日の“主役”は本来、南雲玲奈だ。
「頼まなきゃ!」
「そうそう、玲奈さんの好きなやつ!」
声が上がりかけたところへ――中島美奈が、間髪入れず割って入る。
「あっ、私ったら。玲奈が何好きか聞くの忘れてた」
そして、あまりに“良い人”の笑顔で続けた。
「もう辞めちゃうけど、研究室のために頑張ってくれたこと、本当に感謝してる。今日は遠慮しないで食べて。私が奢るから……玲奈への送別の気持ちってことで」
『送別』――その言葉だけ、妙に強く噛む。
申し訳なさげな声色。けれど南雲玲奈は見逃さなかった。
視線の奥に、ちらりと走った得意げな光。
南雲玲奈は冷たく見返す。
――よくもまあ、ここまで“演じられる”ものだ。
オスカー級、なんて言葉が頭をよぎる。
でも、こちらは付き合う気がない。
「中島さんとは面識もないし、一緒に働いたこともありません」
低い声で、切り捨てた。
「送別をするなら、あなたの番じゃないでしょう」
中島美奈が一瞬、固まる。
すぐに、泣きそうな顔へ切り替わった。
「ごめんなさい……私、出しゃばったよね。悪意はないの。ただ……本来その席は玲奈のものだったから。私が引き継いで、玲奈が去るなら、送るのが筋かなって……」
そして俯き、罪を背負ったみたいに呟く。
「玲奈、怒ってる? 私……部長の席、座らない方がいい?」
――始まった。
自作自演の舞台。
南雲玲奈が口を開くより早く、横尾孝人が眉を寄せて言い放つ。
「座るに決まってる」
さらに、鋭い視線を南雲玲奈へ向ける。
「南雲玲奈、いい加減にしろ。美奈が好意で招いてるのに、その態度は何だ」
胸の奥で、怒りが爆ぜた。
主役は自分のはずだ。
中島美奈が勝手に押しかけてきただけなのに、横尾孝人はまるで見えていない。
――昔の自分は、どうして気づかなかったんだろう。
この男は、こんなにも都合よく目が潰れる。
南雲玲奈が言い返そうとした、そのとき。
大村碧が青ざめて、慌てて間に入った。
横尾グループ社長。海城のトップ。
怒らせたら、終わる。
まして玲奈はもう退職した身だ。業界で干されるのなんて一瞬。
「社長、玲奈はわざとじゃありません……! 研究室に何年も心血を注いできましたし、辞めるとなれば、気持ちが揺れて……。どうか、今日だけは大目に見てください……」
同僚たちも一斉に頭を下げる。
「社長、どうか……」
「中島部長も、玲奈さんに悪気は……」
そこへ、タイミングよく料理が運ばれてきた。
ぴたり、と空気がほどける。
気の利く者が料理を褒め、酒を勧め、必死に場を明るく装う。
横尾孝人は冷たく視線を引き、追及をやめた。
大村碧が、ほっと息を吐いてから南雲玲奈の皿へ料理を取り分け、小さな声で言う。
「……今は我慢して。あの人たち、私たちが逆らえる相手じゃない。後で仕事に響いたら困るから……」
その気遣いが痛いほど分かって、南雲玲奈は奥歯を噛みしめた。
ここで席を立てば、大村碧の顔を潰す。
――今日は、碧のために。
やがて酒が回り、場は少しずつ賑やかになっていく。
いつもは近寄りがたい横尾孝人が、中島美奈のためにここにいる。それだけで皆の胆は大きくなり、何度も杯が差し出された。
すると中島美奈が手を上げて止める。
「孝人、胃が弱いの。飲みすぎはだめ。残りは私が代わりに飲むわ」
彼女は杯を受け取り、くいっと一気に飲み干した。
横尾孝人は止めなかった。むしろ目が柔らかい。
「君も飲みすぎるな。酔うぞ」
中島美奈が、いたずらっぽく瞬きをする。
「昔より強くなったの。平気。酔わないよ」
横尾孝人は甘やかすように笑うだけで、それ以上は言わない。
二人だけの世界。
他の人間は、最初から存在していないみたいに。
南雲玲奈は、胸の中がひどく滑稽だった。
横尾孝人の胃が弱いから――自分は三年、毎日薬膳を煮た。
少しずつ、少しずつ整えてきた。
それでも、こんな優しい顔は一度も向けられなかった。
自分が何をしても、当然みたいに受け取られるだけ。
なのに中島美奈は、酒を一度代わっただけで、特別扱いだ。
――初恋って、そういうもの?
込み上げる吐き気に、南雲玲奈は顔をしかめた。
さっき飲んだ酒のせいか、胃の奥がきりきりと痛む。
彼女は静かに立ち上がり、トイレへ向かった。
……吐きたくても、何も出ない。
壁に手をついて、しばらく息を整える。
宴が終わりかけた頃、南雲玲奈は個室へ戻り、そのまま先に帰ろうと扉へ手をかけた。
がちゃり、と開いたその瞬間――
目に飛び込んできたのは、横尾孝人と中島美奈が抱き合っている光景だった。
