第1章
友だちからはよく言われる。私は「氷山」と結婚したのだ、と。
三年の契約結婚。彼は一度も、私に触れなかった。
新婚初夜、私が自分から彼の寝室へ移ろうとすると、彼は拒んだ。ネットで買った勝負下着を着て彼の前に立っても、彼は冷静にこう言っただけ。
「体に気をつけろよ。風邪ひくぞ」
健康で、性欲だって普通にある女として、私は毎日、自分の欲望に焼かれていた。
きっと彼は私を愛していない。なら、お互いのために。そう思って離婚届に署名し、今日、彼に告げるつもりだった。
あの午後、彼の心の声を聞いてしまうまでは。
バスタオルを羽織って彼の前に立ったとき、彼は表面上は平然とパソコンを見ていた。けれど頭の中では絶叫していた。
「やばい! 下着つけてない! 肌、白……胸、でか……我慢できない……いや、だめだ、怯えさせる。くそ、またパンツが……」
氷山の下には、同じだけ長く抑え込まれてきた火山が隠れていたのだ。
私はこっそり離婚届を隠し、彼にコーヒーを淹れた。
任務変更。
この火山を、彻底的に噴火させる。
「こちらが離婚届です。署名のうえ、ご確認ください」
弁護士の声は淡々としていた。三年の結婚生活も、たった数枚の紙で終わる。
ふと、あの午後の光景が脳裏にフラッシュバックする。
両親の残した書店は経営が傾き、請求書が山のように積み上がっていた。棚に薄く積もった埃をかぶった本を見つめながら、私は絶望で感情すら麻痺していくのを感じていた。
両親が残してくれた、たったひとつのもの。あれだけは守りたかったのに、守れない。
そのとき、突然ドアが開いた。
羽山准一だった。
大学の同級生で、今は金融系企業の幹部。落ち着いたスーツ姿のまま店に入ってきて、私を見て言った。
書店を立て直す資金を出す。ただし条件がひとつ。
三年間、彼の妻になること。
私は頷いた。
それから三年。彼は完璧だった。書店は息を吹き返し、生活面でも欲しいものは何でも揃えてくれる。周りはみんな、私が「非の打ちどころのない夫」を手に入れたと羨んだ。
問題はひとつだけ。
三年間、私たちは一度も抱き合っていない。
一度たりとも。
新婚初夜、決意を抱いて寝室に入ろうとした私を尻目に、彼は枕を抱えて客間へ逃げた。後日、ネットで買った勝負下着を身につけて彼の前に立っても、彼はちらりと一瞥しただけで、
「体に気をつけろよ。風邪ひくぞ。早く休め」
私は自分がバカみたいだった。
でも、やがて理解した。契約結婚なんて所詮、取引だ。彼が私に優しいのは義務の履行で、触れないのは距離を保つため。理屈としては筋が通っている。
ただ、夜、ベッドに横になると、体は勝手に反応する。私は布団を噛んでひとりで処理して、終わったあとにまた惨めな気持ちになる。
先週、親友たちと集まったときもそうだ。みんな盛り上がっていた。彼氏の体力自慢をする子、新しい男の下手さを愚痴る子。
私は座っているだけで、ひと言も混ざれなかった。
彼に好意があるのは事実だ。大学の頃から。あの頃の彼は学部内でも話題の人で、成績が良くて、顔もいい。なのに口数は少ない。
けれど恋は一方通行じゃ続かない。彼が私を愛していないなら、私がどれだけ好きでも無意味だ。
離婚しよう。
この三年は、書店を守ってくれた恩を返したと思えばいい。
そう決めて、署名欄に自分の名前を書いた。
家に戻ると、准一がリビングにいた。
普段なら会社で残業ばかりなのに、今日は珍しく在宅らしい。白いシャツの袖を肘まで捲り、横顔のラインは冷たく硬い。禁欲的なのに妙に色っぽい。
正直、顔が良すぎる。三年、私は眺めるだけで、触れることすらできなかった。
これからは、眺めることさえできなくなる。
「ただいま」
私が言うと、彼は顔も上げずに、
「ん」
バッグを提げたまま階段へ向かう。
「先にシャワー浴びてくるね」
熱い湯が肌を叩く。目を閉じて、私はこのあとどう切り出すかを頭の中で組み立てた。
「私たち、合わないと思う……」
「三年の期限も近いし、早めに終わらせない?」
「もう、離婚届は書いてあるの……」
シャワーを止め、タオルを手近に引っ掴んで羽織る。
おかしい。
下着がない。
確かに、脱ぐときここに置いた。黒いレースの、あの一枚。
私はバッグから離婚届を取り出し、背中に隠したまま、タオル姿でリビングへ向かった。
准一はまだそこで、キーボードを叩いている。シャツのボタンがふたつ外れて、鎖骨が覗いていた。
声をかけようとした、その瞬間。
頭の中で、唐突に音が爆ぜた。
「うそだろ! なんでタオルだけで来るんだ! 肌、白……くそ……胸、でか……タオル、もう限界だろ……だめだ、見るな! バレる! やばい、我慢できない……」
私は、その場で固まった。
……准一の声?
でも彼は何も言っていない。画面を見たままだ。
准一はわざとらしく咳払いを二回して、座り直し、無表情のまま顔を上げた。
「どうした?」
なのに、私の頭の中では、また彼が叫ぶ。
「押し倒したい。ソファに押しつけて。あのタオル、引き裂いて……いやだめだ、怯えさせる。変態だと思われる。冷静に。深呼吸。くそ……またパンツが……」
これ、心の声だ。
私、彼の考えてることが聞こえてる。
私は息を整え、背中に隠していた離婚届をぎゅっと握り潰した。くしゃくしゃの塊にしてから、何でもないふりをして机へ行き、彼のコーヒーカップを手に取る。
「お仕事、お疲れさま」
身を屈めて、カップを差し出した。
近い。睫毛の一本一本が見えて、呼吸の熱まで届く距離。
准一の喉仏がごくりと大きく上下し、視線はタオル越しの胸元に吸い寄せられたまま、唾を飲み込んで硬い動きでカップを受け取った。
「……あ、ありがとう」
次の瞬間、彼は勢いよく立ち上がり、ノートパソコンをぱたんと閉じると、逃げるようにキッチンへ向かった。
私はその場に立ち尽くし、彼の狼狽ぶりを見送る。
頭の中で、轟くような怒鳴り声が響き渡った。
「くそ!!!!!!」
私は唇を噛んで笑いを堪え、手のひらを開く。離婚届はぐしゃぐしゃの紙くずみたいに丸まっている。
キッチンのほうを見て、私は小さく囁いた。
「覚悟してね」
