第2章
平原寧々――平原綾香の義姉。
平原綾香の瞳の奥に、瞬く間に憎悪が浮かび上がった。今すぐ駆け寄って、この女の喉を絞め上げたい――そんな衝動が込み上げる。
一方の平原寧々は、顔色を変えた。驚きと怯えが剥き出しのまま固まっている。ここで平原綾香に会うなんて、思いもしなかったのだろう。だって、この女は――とっくに死んだはずなのに。
「……生きてるの?」
寧々は一歩、後ずさった。怯えは消えない。
だが次の瞬間、その表情が醜く歪む。
生きている? そんなの、許されるはずがない。もし綾香が生きていたら――自分と松村家の若様との縁談が、水の泡になってしまう。
寧々の目に凶光が走った。
今日の松村家の宴に、こいつを絶対に出してたまるか。
「恥知らずのクズが……よくノコノコ顔出せたわね。さっさと消えなさい!」
吐き捨てるように罵り、そのまま綾香を突き飛ばそうと手を伸ばす。
平原綾香は最初から警戒していた。伸びてきた手首をがっちり掴み――乾いた音とともに、平手打ちを叩き込む。
ぱんっ。
「私が探してるのは、子どもの父親――松村礼嗣よ。誰が邪魔しても、許さない!」
平原寧々は殴られて呆然とし、すぐに顔を引きつらせた。
この女が――自分を叩いた?
しかも今、「松村礼嗣が父親」だと?
「クズが、何を寝言言ってんのよ!」寧々は歯ぎしりし、憎悪を滲ませる。「どこで拾ってきた野種を、松村若様の子だなんて言い張るつもり?! 礼嗣は私の婚約者よ。汚すんじゃない!」
寧々はすぐさま警備員を呼びつけ、綾香を目立たないように追い出させようとした。
平原家の令嬢の命令に逆らえる者はいない。警備員たちは綾香を囲み、腕を掴んでホテルの外へ引きずり始める。
「やめて……!」
綾香は慌てて後ずさるが、ヒールのせいで動きが鈍い。あっという間に捕まえられ、さらに口を塞がれる。
出口が迫る、そのとき――。
背後から、ためらいがちに女の声がした。
「……綾香? あなたなの?」
銀のオートクチュールドレスを纏った艶やかな女が、取り巻きを連れてホールへ入ってくる。入口の騒ぎを見た瞬間、顔色を変えた。
「何してるの! 私のマネージャーを追い出すなんて!」
「涼子!」
綾香の顔に安堵が灯る。
警備員たちは青ざめ、掴んでいた手を離して平謝りを始めた。平原家の大小姐も怖いが、田原涼子はそれ以上に厄介だ。
少し離れた場所で、平原寧々の顔が歪む。綾香が田原涼子のマネージャー? そんな馬鹿な。いつの間に、そんな力を――。
田原涼子は綾香を引き寄せ、小声で尋ねた。
「この前、来られないって言ってたじゃない。どうして来たの?」
綾香は視線を揺らし、正直に答える。
「私用よ。松村礼嗣に会いに来たの。あの人なら、娘を救える」
その一言が、場の空気を凍らせた。ざわめきが止まり、周囲の視線が一斉に綾香へ突き刺さる。
綾香は取り乱さない。ハンドバッグから一枚の写真を取り出した。
写真の少年は――松村礼嗣を写し取ったかのように、瓜二つだった。
平原寧々の瞳が揺れる。
「……ありえない! そんなの偽造よ!」
恐怖に負けて、声が裏返る。
すると遠くの螺旋階段から、威厳ある老いた声が響いた。
「何の騒ぎだい?」
空気が一瞬で静まり返る。寧々もぴたりと口を閉ざした。
白髪で、品格を纏った老婦人がゆっくりと階段を下りてくる。ホールの客たちは次々と礼をした。
松村家当主の正妻――そして松村礼嗣の祖母。
「お婆さま……」
寧々は肩をすくめ、綾香を指さす。
「この女が騒いでいて。今、警備に……お引き取りいただくところでした」
松村お婆さんの鋭い目が綾香に向けられる。値踏みするような視線で、静かに問う。
「何を騒いでいるの?」
寧々が慌てて口を挟む。
「無茶苦茶を言う頭のおかしい女です。追い出せば――」
「違います」
綾香は真っ直ぐに松村お婆さんを見上げた。卑屈にもならず、気後れもしない。
「今日、私は人を探しに来ました。これは息子の写真です」
そう言って、写真を差し出す。
松村お婆さんは写真の少年を見た瞬間、目に鋭い光を宿した。
――礼嗣の幼い頃に、あまりにも似ている。
だが今の世には、写真を偽造する技術もある。突然現れた女の言い分を、簡単に信じるわけにはいかない。
何より、孫を信じている。外で遊び、隠し子を作るような男ではない、と。
松村お婆さんはしばらく沈黙し、やがて口を開いた。
「写真一枚では何も証明できない。子どもを連れておいで。こちらで専門機関に依頼して、親子鑑定をしよう」
「結果が礼嗣の子だと出たなら、私はあなたにきちんとけじめをつける」
綾香は頷きかけた。鑑定が怖いはずがない。自分が関係を持った男は、松村礼嗣だけなのだから。
――そのとき、バッグの携帯が鳴った。
病院からの着信。
綾香の表情が強張り、すぐ通話を取る。
「平原さん、平原小春ちゃんが先ほど脳内出血を起こしました。医師が緊急手術に入っています。すぐ病院へ――」
綾香の顔から血の気が引いた。携帯を握る手が震える。
唇を強く噛み、なんとか平静を保った。
「……すみません。急用で、先に失礼します……」
それだけ言い残し、綾香はホテルを飛び出した。
松村お婆さんは眉をわずかに寄せたが、止めはしなかった。
平原寧々の目に、素早く喜色が走る。すかさず煽り立てた。
「お婆さま、親子鑑定って言われて怖くなって逃げたんですよ! ほら、やっぱり詐欺師です!」
「そうよそうよ!」
周囲の貴婦人たちも口々に言う。
「金に困って嘘をでっち上げたのよ」
「もうよい。この件はここまで」
松村お婆さんは、消えた背を重く見つめた。
嘘とは思えない目だった。調べさせる必要がある――。
◆
綾香は最速で病院へ戻り、救急手術室の前へ駆け込んだ。ちょうど医師が出てくる。
「先生、娘は……!」
「ひとまず峠は越えました。ただ、病状は末期です。骨髄移植ができなければ、いつ命を落としてもおかしくありません」
医師は疲れた息を吐く。
綾香は膝から力が抜け、涙が止めどなく溢れ出した。
小春はすぐ病室に戻される。綾香は小さな手を握り続けた。ますます青白くなる頬に、胸が針で突き刺されるように痛む。
「お母さん……泣かないで。小春、お母さんが泣くの嫌だよ」
いつの間にか、二人の小さな身体が寄り添っていた。柔らかな温もりが、綾香の心をかろうじて支える。
綾香は二人を抱きしめ、嗚咽を噛み殺す。
「……お母さんの宝物。ありがとう……」
言い終える前に、はっと気づいた。
平原光がいない。
