第3章

「お兄ちゃんは?」平原綾香は青ざめた顔で訊ねた。

二人のちびっ子はもじもじしながら、こそこそと視線を交わす。

綾香はいっそう焦れて、きっと眉を吊り上げた。

「ママの言うこと、もう聞けないの? 早く言いなさい。お兄ちゃん、どこへ行ったの」

平原秋友がようやく、泣きそうな顔で白状する。

「光が……責任取らないお父さんを探しに行くって。妹を助けるって……」

綾香の胸がひゅっと縮んだ。

光が、松村礼嗣のところへ……?

あの子、どれだけ無茶を――。

驚きより先に、心配が喉元までせり上がる。

    ◆

その頃、平原光は松村グループ本社の前にいた。

手にしているのは、大きな黒い双眼鏡。レンズの向こうに映るのは、氷みたいに冷ややかな男だった。

松村礼嗣。黒のスーツにサングラス。社員と護衛に囲まれ、大股で歩いていく。近寄るなと言わんばかりの気配が、周囲の空気まで支配していた。

光は短い脚で駆け、真正面から道を塞ぐ。

「お父さん!」

松村礼嗣が足を止めた。サングラスの奥、漆黒の瞳が鋭く細まる。

お父さん? 誰に向かって――。

自分に酷似した小さな子どもを前に、松村礼嗣は眉をひそめ、しゃがみ込んだ。

「坊や。人違いじゃないか?」

背後の護衛たちは目を丸くする。冷徹で知られる社長が、こんな柔らかい声を出すなんて。

平原光はむすっとした顔で首を振った。

「人違いじゃない。あなたが僕のお父さん。ハッキングで復元したお父さんの顔、あなたとそっくりだったし、こんなに似てるんだから聞くまでもないでしょ」

「でも、俺には息子はいない」松村礼嗣は小さく笑った。子どもの悪戯だと受け取ったのだろう。

光は眉を寄せ、頑固に言い張る。

「いる! 僕、間違えない!」

ぷくっと頬を膨らませ、鋭く突き刺す。

「責任取りたくないの? 僕とママを認めたくないの? クズ男!」

松村礼嗣の眉間に皺が刻まれた。

「君のママの名前は? 電話番号は? 迎えに来させる」

「……ママは平原綾香」

光は松村礼嗣の表情をうかがいながら答えた。

平原綾香。

松村礼嗣の記憶に、その名はない。

瞳の奥がすっと冷える。子どもを使って、俺を嵌めるつもりか――。

    ◆

一方その頃、綾香は病院で娘のそばについていた。ポケットの携帯が不意に震える。見知らぬ番号。

事務所絡みの用件だと思い、何気なく出る。

「はい、アヤカスタジオで――」

冷えた低音が割り込んだ。

「お前の息子が、俺のところにいる」

綾香の顔色が変わる。長男に何かあったのだと勘違いし、携帯を落としそうになった。

「あなた誰? 息子はどこ!」

「松村礼嗣だ」苛立った声が続く。「松村グループの……隣のレストランにいる」

綾香は介護スタッフと家政婦に子どもたちを任せ、すぐ車を出した。

三十分後。店に駆け込むと、ガラス窓際の席に大と小が並んでいる。

平原光はポテトにケチャップをたっぷりつけて口へ運び、口の周りが真っ赤だ。鼻先にも少しついていて、滑稽なほど可愛い。

隣の男は黒のオーダースーツ。冷ややかで、気品がある。

男は紙ナプキンを取り、どこか不器用に光の鼻のケチャップを拭っていた。

綾香の胸が、波紋のように揺れる。

――この人。前に病院でぶつかった男。

松村礼嗣。子どもたちの父親……。

ぼうっとしている間に、光が綾香を見つけた。椅子から飛び降り、弾丸みたいに突っ込んでくる。

「お母さん!」

抱きとめた、その瞬間。

松村礼嗣が長い脚で数歩、綾香の前に立った。視線が鋭い。

「君が母親か」

想像はしていた。こんな子が生まれるなら、美人に違いない、と。だが実物は想像以上で、女に興味の薄い自分でさえ一瞬息を呑む。

綾香は小さく息を整え、頭を下げた。

「はい。松村さん、平原綾香です」

背が高すぎて、少し見上げる。記憶の曖昧な背中と、今の彼が重なった。

松村礼嗣は一歩詰め、圧をかける。口調には嘲りが混じっている。

「平原さん。こういう教育をしているのか? 街中で父親探しをさせるなんて」

綾香は眉をひそめ、光を背に庇うようにしてバッグから一枚の小切手を取り出した。

「父親は一人だけです。松村さん、六年前の7月20日、威斯特ホテル。この小切手、覚えてますか?」

松村礼嗣の瞳孔がわずかに縮む。視線が小切手に吸い寄せられ、胸の内に波が立った。

――なぜ、この女があの夜を知っている?

だが、あの夜の相手はすでに突き止めている。平原家の一人娘、平原寧々。だからこそ祖母の勧める政略結婚を受け入れたのだ。

松村礼嗣の目に冷気が濃く宿る。小切手を受け取り、見もせずに破り捨てた。

びりびり、と紙片が舞う。

「そういう手口は見飽きた」

綾香は息を呑んだ。止める暇もない。

怒りで頬が染まる。

「信じないなら、DNA鑑定をすればいい!」

松村礼嗣は薄く笑った。

「いいだろう」

護衛に命じ、光の髪を一本採取させる。

    ◆

三時間後。

松村礼嗣は無表情のまま、DNA鑑定書を綾香の前に投げた。

「自分で見ろ。君の息子と俺は、無関係だ」

綾香は震える手で開き、最後の一行を見た。

親子関係 0.01%

「……そんな、嘘……」

信じられない。松村礼嗣が父親じゃない? でも小切手の署名は間違いなく――。

綾香は呆けたように立ち尽くし、衝撃から抜け出せない。

光は鼻をひくつかせ、小さく呟く。

「……おかしい。ちゃんと調べたのに……」

「平原さん、子どもをよく見ておけ。二度と父親探しごっこで騒ぐな」

松村礼嗣はそれだけ残し、店を出ていった。

光は父親の背中を見送り、目をきょろりと動かしたかと思うと、急に大声を上げる。

「僕、あいつの家に行く!」

綾香は心がぐちゃぐちゃで、相手にする余裕がない。光を抱えて店を出た。

病院へ戻る道中も、胸の中は荒れたままだった。

娘を救う希望が、また消えていく。

子どもたちの父親は松村礼嗣じゃない――なら、いったい誰?

    ◆

松村家本宅。

平原秋友は別邸の警備員を薬で眠らせ、堂々と中へ入った。

リビングへ踏み込むと、ちょうどエレベーターから出てきた松村礼嗣と鉢合わせる。

「……君か」

松村礼嗣は驚き、歩み寄って秋友を抱き上げた。

「母親と帰れと言っただろう。なぜここに?」

秋友は照れくさそうに身体をくねらせる。

「お父さん! 僕、平原秋友!」

「平原秋友……平原光じゃない」松村礼嗣の目が鋭く光り、顔立ちを確かめてすぐ理解した。「双子か」

秋友が「四つ子だよ」と言いかけた、そのとき。

少し離れた場所から、老いた声が響いた。

「その子だよ! 写真の子は!」

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