第4章
「……この子、あんたの小さい頃と瓜二つじゃないか!」
松村お婆さんは手すりに手を置いたまま、松村礼嗣に抱かれている平原秋友を瞬きもせず見つめていた。
平原秋友はぱちぱちと大きな目を瞬かせ、目の前の穏やかな老婦人に向かって、珍しく行儀よく言う。
「おばあちゃん、こんにちは」
その柔らかな声に、松村お婆さんの胸はとろりとほどけた。
「ええ、いい子。なんて可愛いの」
松村礼嗣は眉をひそめ、秋友をそっと床に下ろす。
「祖母さん、落ち着いて。親子鑑定の結果はもう出てる。こいつは俺の息子じゃない」
「……何だって?」
松村お婆さんの笑みが、ぴたりと凍りついた。
「そんなはずがあるかい。ほら、その眉、その目、その鼻筋……礼嗣、正直に言いなさい。認めたくないから、偽の報告書を作らせたんじゃないの?」
松村礼嗣はこめかみを押さえたくなるのを堪え、低く息を吐く。
「その程度のことで偽造なんてしない。権威ある機関の発行だ。白紙に黒字で、血縁関係なしって書いてある。信じないなら、原本を祖母さんが直接見ればいい」
「……ありえない」
松村お婆さんは呟いた。
「血が繋がってないのに、ここまで似るものかね……」
「祖母さん」
礼嗣は遮るように言った。
「事実は事実だ。ただの偶然だろ。世界には似た顔の人間がいる」
松村お婆さんはしばらく黙り込んだ。秋友の小さな顔を見ていると、胸の奥にすうっと穴が開くようで、どうにも落ち着かない。
やがて腰を折り、慈しむような声で秋友にたずねる。
「ねえ、坊や。ママのお名前は? 電話番号も教えてくれるかい。私が会いたくなったら、遊びに行けるようにね」
秋友はその優しい眼差しを受け、小さな頭を高速回転させたあと、素直に答えた。
「平原綾香。電話は――」
このおばあちゃんは自分のことが好きそうだ。きっとママや妹の助けにもなる。そう直感していた。
その様子に、松村礼嗣の眉間の皺がさらに深くなる。
礼嗣は踵を返し、少し離れた場所でスマホを取り出した。今日登録したばかりの番号を選び、発信する。
「……もしもし? 松村さんですか? 秋友が――」
受話口から飛び込んできたのは、平原綾香の切羽詰まった声だった。
「そうだ」
松村礼嗣は冷淡に言い放つ。
「君の息子は今、俺のところにいる。今すぐ迎えに来い」
返事を待たず、さらに言い切った。
「平原さん。これは最初で最後だ。二度と君の子どもが、俺や家族の前に現れるのは望まない。くだらない認親ごっこは終わりにしろ」
胸の奥が、きゅっと痛む。
「わかりました、松村さん。すぐ迎えに行きます。……ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
通話を切り、松村礼嗣がリビングへ戻ると、松村お婆さんはメモ用紙に番号を書き留めながら、秋友にやわらかく話しかけていた。
「迎えに来る」礼嗣は短く言う。「祖母さんも休め」
松村お婆さんはメモをしまい、最後に秋友の頭を撫でて立ち上がった。
「血が繋がってなくても、この子は可愛い。礼嗣、母親にも少し優しくしなさい。女手一つで子どもを何人も育てるのは大変だよ」
そう言い残し、使用人に支えられながら階上へ消えていった。
リビングに残されたのは、秋友と礼嗣。
二人はしばらく、無言で見つめ合う。
松村礼嗣はそれ以上何も言わず、ソファに腰を下ろしてタブレットの資料を淡々と捲った。
――どれほど経ったのか。
玄関のチャイムが鳴り、使用人に案内されて平原綾香が入ってくる。
「秋友!」
綾香は駆け寄り、息子を抱き締めてさっと全身を確かめた。無事だとわかると、ようやく顔を上げ、礼嗣へ頭を下げる。
「松村さん、ご連絡ありがとうございました。子どもが分別なく……ご迷惑を」
松村礼嗣は視線を上げるだけ。
「連れて帰れ。言ったことを忘れるな」
綾香は唇を結び、余計なことは言わず、秋友の手を引いて去っていった。
帰りの車内。
秋友はこっそり子ども用スマートウォッチを取り出し、兄の平原光へ暗号メッセージを送る。
【次男】『任務失敗! バカパパ、俺たち認めない! でもおばあちゃんは俺のこと気に入ったっぽい。ママの番号、渡しといた』
すぐに返信が来た。
【長男】『その鑑定、絶対おかしい! ありえない!』
秋友はむっとして口を尖らせる。
【次男】『でもパパ、めっちゃ怖い。ママにも怖かった。脅したし。もう好きじゃない』
【長男】『ママいじめたら許さない。見てろ』
その頃、平原光は自宅の書斎で、小型PCの前に座っていた。頬はぷくっと膨れ、目には火が宿っている。
昼間、帰ってきたママの抜け殻みたいな顔。それが、光の怒りに油を注いだ。
黒い画面をいくつも立ち上げ、指を走らせる。
「ママに意地悪して、俺たち認めないなら……色つけてやる」
数分後、松村グループ本社・セキュリティセンター。
けたたましい警報が部署中に響き渡った。
社内の端末が一斉にブラックアウトし、次いで画面いっぱいに警告マークが踊る。
「何が起きた?!」
責任者が椅子を蹴って立ち上がり、顔面蒼白になる。
「部長! コアのファイアウォール突破です! 侵入者が内部でデータを読んで――!」
技術者の声が震える。
「速すぎます! 追跡できません!」
「緊急手順を起動! 外部接続を切れ!」
背中を冷汗が流れた。鉄壁だと豪語してきた防御が、どうして――。
「……あ、あれ? 侵入者、データベースの手前まで来て……一周して、逃げた、みたいです」
別の技術者が信じられない顔をする。
「逃げた?」
ログを確認すると、確かに盗用の痕跡はない。だが重要システムのアクセスログは滅茶苦茶に荒らされ、機密流出の有無すら判別できなかった。
「露骨な挑発だ! 競合の仕業に違いない!」
部長は歯ぎしりする。
「総点検! 防御レベルを最大に! 松村様へ即報告だ!」
翌朝9時。
松村グループ本社では、社員が次々と出社していた。外見はいつも通り――のはずだった。
「……え? PCが……」
「俺のも! 消えないんだけど!」
各フロアで、ざわざわと驚きの声が上がる。
同時刻。社内ネットにつながる全端末に、巨大なピンクのカートゥーン風ポップアップが強制表示された。チカチカと点滅しながら、ただ一行。
【松村礼嗣はバカ!】
オフィスが一瞬で凍りつき、全員が自分の画面を呆然と見つめた。
「……やばいだろ」
「誰がやったんだ、死にたいのか?」
「再起動しても消えない!」
秘書室の電話は鳴りっぱなしになり、収拾がつかない。
助手の林原深川が顔色を失って社長室に飛び込むと、松村礼嗣が机の奥で無表情のまま立ち、モニターの文字をじっと見つめていた。
