第5章
松村礼嗣はゆっくりと背筋を伸ばし、刃物みたいな視線で林原深川を斬りつけた。
「調べろ」
「は、はい! 松村様!」
林原深川は冷汗を噴き、踵を返して駆け出した。
――ただのサイバー攻撃じゃない。これは露骨な挑発だ。
しかも手口が、妙に幼稚。
世界最高レベルの防壁を破っておいて、わざわざ松村様を煽るだけだなんて。
いったいどこの暇人が、そんなくだらない真似を――。
◆
一方、街の反対側。
平原綾香は、その騒ぎなど知る由もなかった。
平原光の勝手な行動で不安がる二人をどうにか宥め、眠ったままの平原小春の病室へ向かったところだった。
ベッドの上の小さな顔は血の気がなく、見ているだけで胸が裂けそうになる。
まさか、DNA鑑定で「血縁関係なし」なんて結果が出るなんて。
綾香は細い髪をそっと撫でる。指先に絡むほど柔らかい。
それでも――諦めない。
松村家が駄目なら別の道を探すだけだ。何としても、この子の命を救う。
◆
そのころ、平原光はパソコンの画面に浮かぶ『ミッション完了』の文字を睨みつけ、腕を組んでぷいっと鼻を鳴らした。
「ふん。ママにあんな言い方して、僕らのことも認めないなんてさ。次またママいじめたら……今度は株も落としてやる」
◆
同じ頃、松村家。
平原寧々は鏡台の前に座ったまま、落ち着かない指先でスマホを弄んでいた。
ホテルで平原綾香を見てからずっとだ。なかでも、松村礼嗣に瓜二つの少年の写真――あれが頭から離れない。
スマホがぶるりと震える。
『ブツは差し替え済み。鑑定センターも手配済み。万全』
寧々は強張っていた唇を、ようやく少しだけ緩めた。
――よかった。備えていて正解だった。
松村礼嗣の身辺に潜り込ませた人間から、DNA鑑定の話が漏れた。だからこそ、松村礼嗣の目に入る前に報告書を差し替えられた。
六年前のあの夜だけは、絶対に掘り返させない。
松村礼嗣の「妻」の座は、私のものだけ。
それでも――平原綾香が死んでいなかった。しかも有名人のマネージャーだとか、子どもまで連れて戻ってきたとか。
喉に刺さった棘みたいに、痛い。
消さなきゃ。
寧々は階下へ降り、花を生けていた上野美咲のもとへ駆け寄った。
「ママ! 平原綾香のクズが戻ってきた! 子どもまで連れて、礼嗣に縋りつこうとしてるの。鑑定結果はこっちに有利だけど……なんか落ち着かなくて……」
上野美咲は百合を置き、口元に薄い笑みを浮かべた。温度のない笑みだ。
「慌てるんじゃない。もう調べさせてるわ」
指をゆったり拭きながら続ける。
「平原綾香は今、スタジオでマネージャー。小さなタレントを一人売り出して、表向きはうまくやってるみたいね」
ふっと鼻で笑った。
「でも、それだけ。根無し草が這い上がれるとでも? 地位もコネも資源も、あんたには敵わない。芸能マネージャーなんて、言ってしまえば少し上等な乳母よ」
寧々は少しだけ息をつく。
「でもママ……礼嗣のおばあさまが、あの子に興味を持ったみたいで……長引いたら困る」
美咲の瞳に冷たい光が走った。
「大丈夫。段取りはある」
声は穏やかなのに、ぞっとするほど冷たい。
「上を目指したいなら、もう一度“消える”機会を作ってあげればいいの」
「子どもは孤児院へ。そこで骨抜きにされれば、松村家が引き取ることもないわ」
◆
数日後。
平原秋友は、綾香が出かけたきり戻らないことに気づいた。いつもなら、とっくに夕飯の時間だ。
平原雪子は目に涙を溜めて、小さく震える。
「ママ……私たち、いらないの……?」
「変なこと言うな!」
平原光は顔を引き締めた。
母のスマホを追跡してみる。最後の信号は病院の地下駐車場で途切れていた。
それきり、沈黙。
「……ママのスマホ、信号が切れてる。おかしい」
光はすぐに監視映像を引っ張った。
画面の中で、綾香が自分の車へ向かった瞬間――柱の陰から黒い影が二つ。口元を何かで塞ぎ、あっという間にナンバープレートのないミニバンへ引きずり込んだ。
「……ママ、連れていかれた!」
光の声が裏返る。小さな顔から血の気が引いた。
秋友と雪子が画面に食いつき、雪子は怖さに耐えきれず泣き出す。
「警察だ!」秋友が叫ぶ。
「待って」
光は無理やり息を整えた。
「場所を言えなきゃ意味がない。今どこにいるかわからないんだ」
秋友が唇を噛みしめる。
「……パパに言う?」
「言っても無駄だよ。僕らのこと認めないんだから」
光の指がタブレットの上を走る。ミニバンのルートを、断片的なカメラ映像から拾い集める。
相手は監視の薄い道を選んでいる。けれど、主要交差点の映像の欠片だけは消せない。
「……わかった。ママがいるかもしれない区域、だいたい出た」
光が顔を上げた、そのとき。
秋友が決意したように言った。
「僕、パパに電話する。ママを助けてって」
◆
松村礼嗣は会議中だった。
着信表示を見て、本来なら取らない。そういう類いの電話じゃない。
それなのに。
指が、勝手に動いた。
「……もしもし」
次の瞬間、泣き声まじりの子どもの声が飛び込んできた。
「悪い! ママ助けて! 悪い人がママさらった! 場所は西の古い工場! 早く来て! 来ないとママ、殴り殺される!」
松村礼嗣の胸が、どくんと縮んだ。
椅子を蹴るように立ち上がる。
「……何だと? 場所をもう一度言え!」
「西……うっ……」
そこで通話が途切れた。
ツーツー、という無機質な音だけが耳を叩く。
「おい! 待て!」
松村礼嗣の顔色が一気に険しくなる。会議室の空気が、凍りついた。
「松村様……?」
林原深川が息を呑む。
こんなふうに取り乱す松村礼嗣を、彼は一度も見たことがなかった。
