第6章
病院。
乙村彩羽はベッドに横たわっていた。白いシーツが、もともと血の気の薄い顔色をいっそう惨めに際立たせる。唇にも頬にも、生の色がない。
さっき個室で見た時点で、石塚勝矢は彼女が痩せたことに気づいていた。だが、こうして真正面から顔を見た瞬間――胸の奥をぐっと握り潰されたような痛みが走る。
目の前の女は、骨と皮だけだった。誰がどう見ても、三年前の――華やかで、眩しくて、「乙村家のお嬢様」と呼ばれていたあの乙村彩羽には結びつかない。
たった三年の服役で、人はここまで変わるのか。
石塚勝矢は眉間にしわを寄せ、酒場で起きた一連の出来事を思い出す。かつて彼女が誇りにしていたはずの矜持さえ、今はどこかへ置き去りだ。
堪えきれずに一歩寄り、手を伸ばす。頬に触れて確かめたい――これは本当に乙村彩羽なのか、それとも誰かが人の皮を被って彼女を装っているのか。
そうでもなければ、説明がつかない。
「石塚若様」
外から扉が開く音。石塚勝矢の手が宙で止まり、何事もなかったように引っ込められる。
「どうした」
「木宮さんからの伝言です。いつお戻りになれますか、と。木宮さん……あまり状態がよくありません」
秘書の高橋遠矢が、きっちりとした姿勢で入口に立つ。ベッドの上の人影に目をやった瞬間、瞳に驚きが走ったが、すぐに伏せるように消した。
この三年、木宮朱理の鬱は繰り返しぶり返していた。死のうとしたり、錯乱したり。彼女を落ち着かせられるのは石塚勝矢だけだ。
理由は知らない。ただ、木宮朱理が発作を起こせば、石塚勝矢は何をしていようと最優先で戻っていく。それは今回も同じ。
「わかった。車を回せ」
石塚勝矢は乙村彩羽から視線を外し、踵を返して扉へ向かう。
「それと――誰かを付けておけ。俺が来たことは、本人に気づかせるな」
「承知しました」
高橋遠矢は深く頭を下げた。
*
乙村彩羽が目を覚ましたのは、夜明け前だった。
視界いっぱいに白い天井。自分がどこにいるのか、一瞬わからない。
「起きた? 先生が言ってたよ。飲みすぎに加えて、体がかなり弱ってるから倒れたんだって」
隣から聞こえたのは、聞き覚えがあるようで、どこか遠い声。
乙村彩羽が首を回すと、個室で自分をかばってくれた小崎寧音がいた。
「あなたが……病院に? ありがとう」
起き上がろうとした体が軋む。すると寧音が素早く寄り、肩を押して寝かせた。
「礼なんていいよ。どうせ……」
どうせ、運んだのは自分じゃない。ただ上から言われて来ただけ――そう続けかけて、寧音は言葉を飲み込んだ。
「寝てて。ちゃんと休めって」
乙村彩羽は臓腑の奥がずきずきと痛み、息を吸っても苦しい。何度か浅く呼吸してから、首を振る。
「大丈夫。……今すぐ退院する」
「ちょっと、あなた――」
「お金がないの。治療費は……稼いだら返す。さっきは助けてくれて、ありがとう」
乙村彩羽は歯を食いしばり、手の甲の針を自分で抜いた。床に足をつけた瞬間、ふらりと体が傾く。目に見えて弱っていた。
寧音は小さく息を吐く。底で生きる人間同士だ。困窮の形なんて、痛いほどわかる。
追い詰められなきゃ、あの個室であそこまで辱めを受けるはずがない。しかも――。
複雑な顔のまま、寧音は彩羽をベッドに戻した。
「いいから休んで。金のことは気にしなくていい」
彩羽は腰を下ろしたまま、じっと寧音を見る。痩せた頬に対して、瞳だけが不釣り合いなほど大きい。妙に庇護欲をそそる目だった。
寧音は笑おうとして、できなかった。
「おめでとう。……あなた、囲われることになった」
乙村彩羽は言葉の意味を飲み込めず、眉を寄せる。
「……え?」
「今月からは何もしなくていい。家で大人しくしてればいいって」
彩羽の視線が揺れる。そんな言葉を聞いた瞬間、胸の奥をかすめたのは――安堵だった。認めたくないのに、確かに。
「囲われる」なんて、自分に起きるはずがないと思っていた。昔の自分なら、この言葉をどう受け取っただろう。もう想像すらできない。
今の自分は、ほっとしている。
誰かに囲われれば、こんな苦労をしなくて済むのではないか。石塚勝矢と――二度と向き合わなくて済むのではないか。
体を売ることになったとして、それが何だというのだ。生き延びられるなら。
「寧音さん……それで、いくらもらえるの? 今、どうしてもお金が必要なの」
恥も何も捨てて、頭の中は金のことでいっぱいだった。貯められるだけ貯めて、家族を見つけて、ここから遠くへ逃げる――そのために。
けれど次の寧音の言葉は、彩羽をもう一度地獄に突き落とした。
「私たちみたいな立場で、金が手元に残ると思う? 上がほとんど持ってくよ。住む所と飯と、最低限の面倒を見てもらえるだけマシ。満足しな」
「少なくとも、もう客を取らされない。殴られたり、辱められたりもしない」
彩羽の膝の上で、指がぎゅっと握り込まれる。
「……一円も、もらえないの?」
寧音は首を振った。
「金を持たせたら逃げるでしょ。そしたら、店はどこで回収するの。諦めな」
胸の奥でやっと芽生えかけた希望が、冷水で一気に消えた。
「寝てな。明日、寮に連れてく」
それ以上は話さず、寧音は横でスマホをいじり始める。
乙村彩羽はベッドに横たわり、ぼんやり天井を見つめた。頭の中はぐちゃぐちゃで、何ひとつ整理できない。
「寧音さん……お願い。私、本当にお金がいるの。助けて。何でもする」
寧音の指が止まる。数秒、沈黙。
「……あるよ。手っ取り早く稼ぐ方法。ただ、あなたが受け入れられるかは別」
彩羽の目に、固い光が宿る。
「いい。稼げるなら」
寧音は彩羽を一瞥し、スマホを耳に当ててどこかへ電話をかけた。
*
金の心配はしなくていい――そう言われても、乙村彩羽は病院に長居しなかった。
翌朝早く、退院。
寧音に寮の部屋を一通り案内され、その足でバーへ連れていかれた。
「代役ってのはこいつか? この細っせえ体で、ほんとに踊れんのかよ」
下町の荒事がそのまま人になったような、剃り上げた坊主頭の男が顎を撫でつつ、彩羽を上から下まで値踏みする。
店には元々ストリッパーがいたが、ここ数日体調を崩して休み。客足も落ちて、店は穴埋めを探していた。
寧音は笑って彩羽の肩を抱いた。
「虎屋さん、踊れるかどうかなんて大事です? この仕事、腹くくれるかどうかでしょ」
それから彩羽の背中を軽く押す。
「彩羽。虎屋さんに言って。やれる? ちゃんとやれるって」
乙村彩羽は迷わず頷いた。
「できます。必ず、ちゃんと踊ります」
男の目はまだ疑いを捨てない。
説明しても無駄だと悟り、彩羽は遠くのステージを見た。次の瞬間、踵を返してそちらへ歩く。
入る前の自分は、A市で「第一令嬢」と呼ばれていた。家柄だけじゃない。自分自身が、そう呼ばれるだけのものを持っていた。
琴も、碁も、書も、絵も、舞も、楽も――ひと通り、全部。
心配なのは、刑務所で負った傷が残っていること。それが動きに影響しないか。
彩羽はステージの縁で深く息を吸い、覚悟を決める。靴を脱ぎ、裸足で上がった。
その瞬間、店内の視線が一斉に吸い寄せられた。
