第2章
渡部綾香は通話ボタンを滑らせて出た。悪夢の名残で喉が少し掠れている。
「……もしもし」
受話口の向こうから聞こえてきたのは、私情の温度がほとんどない男の声だった。上東区特有の訛りが、やけに耳に残る。
「渡部さん。レオンです。鈴宮さんの者」
機械みたいに用件だけを落とす。
「三十分後、屋敷の門へ。黒いセダンが待っています。鈴宮さんが面会を希望されます」
一方的な通達。質問する隙すらなく、ぷつりと通話が切れた。
鈴宮さん……鈴宮京也。
新興でありながら、鉄血と効率で名を上げた組長。血なまぐさい逸話を引き連れてのし上がった男は、手段が直線的で、そのぶん予測がつかない。
渡部綾香は迷わなかった。ベッドから跳ね起き、昨夜の混濁した夢の残像を頭から振り払う。
身支度を整え、時間どおりに階下へ降りると、黒塗りのシボレーが音もなく停まっていた。窓は濃いスモークで、中はまったく見えない。
後部ドアが自動で開く。
腰を落として乗り込むと、運転席から黒い厚手のベルベットのアイマスクが差し出された。
胸がきゅっと縮む。
それでも黙って受け取り、隙間のないように装着した。世界が一瞬で、純粋な闇へ落ちる。
エンジンが低く唸り、車体が滑らかに走り出すのがわかった。街の振動だけが、距離の感覚を曖昧にする。
どれほど経ったのか。やがて停車。
降ろされ、女の手に導かれる。
「清潔にしていただきます」
短く告げられ、どこかで足を止められた。次の瞬間、アイマスクが手際よく外される。
差し込んだ光に目が痛み、綾香は思わず細めた。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、ようやく視界が馴染む。
そこは、広すぎるほど広い浴室だった。冷たいほど無機質な豪奢さ。
傍らに立つ女は五十歳前後。濃色のスーツを隙なく着こなし、髪は一糸乱れず後ろでまとめられている。
命令が落ちた。
「脱いで。入って。二十分」
胃の奥から、恐怖と屈辱がせり上がる。完全に掌の上で転がされる感覚。屠殺場へ連れていかれる仔羊みたいな息苦しさは、林野正明や木村晴美の前にいるときよりも強烈だった。
綾香はその場に立ち尽くした。
女は抵抗を見透かしたように、口元だけをわずかに歪める。嘲りとも、慣れとも取れる薄い表情。
「渡部さん。ここでは質問も躊躇も不要です。鈴宮さんは「絶対の支配」と……「清潔」を好まれます」
清潔。その言い方だけが、妙に重い。
鈴宮京也の冷酷な噂が脳裏をよぎり、綾香は拳を握り締めた。爪が掌に食い込む痛みが、今の自分を繋ぎ止める。
復讐の熱が、羞恥を押し潰した。
深く息を吸い、女から視線を外したまま、無言で服を脱ぐ。
急いで洗い、拭き、立ち上がる。肌の上を水滴が滑り落ちる感覚が、やけに生々しい。
そして再び、黒いアイマスクが視界を奪った。
闇が戻る。
浴室を出ると、足裏により柔らかな絨毯の感触が広がった。部屋は広い。空気がよく流れ、冷えた高級香水の匂いがする。
「腕を上げて」
命令に従う。
極薄の布が肌に掛けられ、細い紐が首へ回される。さらに女の指が足首を取り、薄いストッキングを履かされる。
――いちばん隠したい場所だけが、空気に晒されたまま。
露骨な暗示に唇を噛む。喉が熱い。
それでも、心の底で言い聞かせた。前世の地獄を耐えた自分が、これしきの屈辱で折れるはずがない。鈴宮京也に会う。違う道を掴む。
「ここで待って。鈴宮さんの用事が終わったら来られます」
足音が遠ざかり、扉が開いて、また静かに閉じる。
室内は完全な静寂に沈んだ。
見えないぶん、聴覚と触覚が異様に研ぎ澄まされる。時間が粘つくように流れ、一秒が一世紀みたいに長い。
洗われ、包まれた「贈り物」として。
生殺与奪を握る男に――開封されるのを待つ。
息苦しさが頂点に届きそうになった、そのとき。
扉の外から、ようやく重く確かな足音が近づいてきた。ひとつ、またひとつ。床がわずかに鳴る。
ざらついた指先が頬を撫でる。
アイマスクの下で瞼が勝手に震えた。
結び目がほどける気配。紐が解かれていく。
「経験は?」
低く掠れた声。イタリア訛りの荒さが混じり、指先の粗さと同じ感触を残す。
綾香は喉を鳴らし、震える声で答えた。
「……子どもを産んだことがあります」
言い終えるのと同時に、脚をきつく閉じる。指がすでに身体を探り、入り口を割ろうとしていた。
嘘はつけない。隠し通せるはずもない。彼が知らないはずがない。
男は驚きもしなかった。
鈴宮京也にとって、たった一度きりの性は最悪だった。泥酔して、ほとんど何も覚えていない。誰かが薬でも盛ったのだろうか。胸糞の悪い雑魚どもなら、やりかねない。
ただ、あの夜の輪郭のない快感だけが、妙に身体の奥に残った。
それ以降、何人も当たった。ストリッパー、娼婦、それから未経験の女まで。だが――どれも駄目だった。興が乗らない。血が騒がない。
綺麗事で誤魔化すなら、女に興味がない、で済む。
だが現実はもっと冷酷だ。
硬くならない。
男にとって、この上ない屈辱。だからこそ、興味がないふりをするしかなかった。
それでも父は誤魔化しきれない。鈴宮は、渡部綾香との婚姻を望んだ。京也は当然、即座に拒んだ。
だが――先週、鈴宮は死んだ。
遺言になってしまった。
ならば叶えるだけだ。結婚する、それだけ。こいつに余計な夢は見させない。
ぶつり。
太い指が、容赦なく入り込む。
前触れもなく、乾いた内側が裂けるように痛む。綾香は息を飲み、声を殺して唇の裏を噛んだ。血の味が、舌の根にじわりと広がる。
逃げればもっと酷くなる。身体が本能で理解していた。
だが、終わりではない。
細い身体は容易く引き寄せられる。すぐ近くで、ジッパーの下りる音がした。
次の瞬間、首を掴まれて押し下げられる。
前世。周防文哉と林野佳恵が、目の前で何度も演じた――あの恥辱。
綾香は理解した。鈴宮京也の意図を。
ここまで来て、退路などあるはずがない。暴力みたいに強いこの男の前で、拒む権利など最初からない。
深く呼吸し、恐ろしいものから目を逸らして――男の目を見る。
それから、ゆっくり、ゆっくりと口を開き、先端を受け入れた。
嫌な味はしない。塩気があり、硬い。
口に含めるだけで限界が近い。喉が反射で縮む。それでも、吐き気を飲み込むように耐えた。
林野佳恵の仕草を思い出す。舌を絡め、吸い、吐き、繰り返す。
ぎこちなさが薄れるほど、男の腰が本能的に動いた。乱暴に口を使われ、綾香の息が詰まる。喉の奥が何度もえづき、視界のない闇がいっそう濃くなる。
その最中、鈴宮京也の胸の奥で、別種の怒りが燃え上がっていった。
――未婚の妻が、どんな女なのか。
もう、十分すぎるほどわかった。
