第3章
確かに、渡部綾香は美しい女だった。
だが同時に――だらしない娼婦だ。とりわけ、男を口で悦ばせるのがやけに上手い。
彼女に子どもがいることは、最初から知っていた。
その子が、ほかの男と寝た末にできた命だと想像するだけで、鈴宮京也の胃はむかつく。
若いうちから男のベッドに転がり、挙げ句に他人の子まで孕んだ女。
そんな女と結婚しろだなんて、父は何を考えていた?
父の遺言でもなければ、渡部綾香のような女など、視界に入れることすらない。
京也の手が彼女の髪へ乱暴に差し込まれる。
下半身の動きは容赦なく、渡部綾香は喉の奥を突かれるたびに「っ……」とえずき、何度も咳き込んだ。
もし彼女が、自分がここまで酷い扱いを受けている理由を知ったら、きっと冤罪だと叫ぶだろう。
――本当に、これが初めてなのに。
濃い熱が口いっぱいに広がった瞬間、吐き出したい衝動がこみ上げる。
それでも、鈴宮京也の傲慢な気配が脳裏をかすめ、渡部綾香は無理やり嚥下した。
必死に取り入った。
その姿が、京也の嫌悪をいっそう煽る。
「ベッドサイドに服がある。それを着ろ。小山が送る」
突き放すような冷たい声。
渡部綾香の呼吸が、二秒ほど止まった。
なんて自大で、嫌な男。
けれど――少なくとも、これ以上の辱めはない。
彼女は目隠しを外せないまま、手探りでしばらくもたつく。
やがて鈴宮京也が気まぐれに許可し、渡部綾香は一時だけ目隠しを外した。
慌ただしく服を整える。
扉を開けて出る、その瞬間――思わず振り返った。
闇の中、鈴宮京也は上半身裸で立っていた。視界の中心を占めるほどの圧。
常人の倍はありそうな巨躯。背と腕には墨色の刺青がうっすら這っている。
煙草に火が点く。ちり、と赤が瞬いた。
一息吸い、吐き出した煙がゆらりと流れる――腹立たしいのに、妙に目を奪う色気がある。
そう思った刹那、鷹のように冷たい視線が刺さった。
「戻れ。お前の居場所へ」
……疲れている。
こんな好奇心を抱くなんて。
廊下で待っていた女執事――小山が淡々と言う。
「要求を一つだけ、承ります。渡部さん」
渡部綾香の胸に、奇妙な冷えが走った。
口で奉仕し、見返りに施し。
――娼婦扱い、ということだ。
腹は立つ。けれど今さら、正義面して抗う気はない。
彼女は小さく頷いた。
「銃が欲しい。可能?」
小山がわずかに目を細める。
「確認いたします。鈴宮さんへ」
すぐに戻り、精巧な小型のレディースモデルを差し出した。
「扱えますか」
渡部綾香は銃を見つめ、そっと握る。冷たい金属が掌に吸いついた。
「……使えない」
指先で撫でると、うっとりするほど美しい形だった。
前世、もしこれがあったなら。
周防文哉と林野佳恵に、最初に食わせてやった。
一発ずつ。きっちりと。
訳もわからず鈴宮京也に辱められた鬱憤さえ、この銃を手にしただけで薄れていく。
渡部家の門へ戻った途端、さっそく邪魔者が現れた。
「綾香、今日はどこへ行ってた?」
周防文哉が不機嫌そうに問う。
渡部綾香は、何の前触れもなく銃口を向けた。
「――パン」
冷たい金属が、まっすぐ眉間を狙う。
周防文哉の顔が凍りつく。不愉快が驚愕へ塗り替わり、反射的に半歩下がって両手を上げた。
声が裏返る。
「綾香! なにしてる?! 下ろせ!」
その情けない虚勢が、渡部綾香の胸の奥から残酷な愉悦を引きずり出した。
……惜しい。
彼女はゆっくり腕を下ろし、隠しもしない残念そうな目をする。
まだ、撃ち方を知らない。
知っていたら。
今この瞬間、引き金を引いていたかもしれない。
「お前……!」
周防文哉はようやく手を下ろし、怒りを顔に貼り付ける。
「渡部綾香、頭おかしいのか?! 偽物の銃で誰を脅すつもりだ!」
取り繕うように一歩踏み込み、手首を掴もうとする。
その瞬間、前世の記憶が津波のように襲いかかった。
冷たい嘲り。拳。蹴り。林野佳恵と絡む吐き気のする影――。
渡部綾香の目が鋭くなる。
躊躇など欠片もなく足を上げ、全身の力で脛へ叩き込んだ。
「ぐあっ!」
周防文哉は不意を突かれて呻き、よろめいて転びかける。
「……よくも!」
「近寄らないで」
渡部綾香の目は、汚物を見るそれだった。
「その汚い手で触れないで」
一瞬、周防文哉は怯む。
だがすぐに表情を作り直し、痛みを堪えながら「深情け」を装った。
「綾香、わかってる。お祖父さんが亡くなって、辛いんだろ。取り乱すのも仕方ない」
「でも、こんなことしても自分を傷つけるだけだ。心配してる人間も傷つく」
視線が銃へ走り、怯えが一瞬だけ覗く。
「鈴宮京也だろ? あいつに脅されたんだな? 何かされたのか?」
「綾香、あの男は危険だ。魔物だ。嫁いでも幸せになれない」
「俺と来い。今すぐここを出よう。誰も知らない場所へ――やり直せる」
やり直し?
前世をなぞって、搾り尽くされて捨てられる未来を?
渡部綾香は込み上げる吐き気を押し殺し、周防文哉の芝居から目を逸らした。
銃を握り直し、その横を通り過ぎる。
彼の言葉も、偽りの未来も、すべて背後へ捨てた。
周防文哉は追いすがりたかったが、脛の痛みと、彼女から漂う氷のような気配に足が止まる。
その目がじわじわと陰っていった。
渡部綾香は自室へ戻り、鍵をかける。
手のひらで銃を眺めた。滑らかな線。精密な構造。力の形。
「……早く、使えるようにならないと」
次は、脅すだけで終わらないかもしれない。
周防文哉も、林野佳恵も。林野正明と木村晴美も。
前世の代償を、必ず払わせる。
そのために必要なのは、力。武器。そして――忍耐。
鈴宮京也は危険だ。だが小山の言うとおり、あの男の気まぐれな施しですら、今の彼女には役に立つ。
