第2章
バーのトイレの照明が、音楽のビートに合わせてちかちかと明滅していた。
松本霞澄は鏡の前に立ち、入ってきた松本希実を、逃がすまいとするみたいに睨み据える。
「うわっ……びっくりした――か、霞澄?」
幽霊みたいな影が妹だと分かった途端、希実はほっと息を吐き、それから気まずそうに口元を引きつらせた。二歩ほど下がり、無理に笑ってみせる。
「こんなとこで偶然だね、霞澄。あんた、前はバーとか嫌いだったじゃん?」
二、三言交わしただけで、希実はすぐに“いつもの顔”を取り戻す。白い顎をついと持ち上げ、上から品定めするように言った。
「ふーん。学びが悪くなったんだ?」
霞澄は瞬きもせず、血色のいい丸い顔を見つめた。
自分の頬は、ぞっとするほど青白いのに。
「松本希実……どういうこと? なんで……なんで生きてるの?」
真実を突きつけられた衝撃が大きすぎて、霞澄は「お姉ちゃん」と呼ぶことすらできなかった。
希実はのんびりと言う。
「私が生きてると、そんなに嬉しくない?」
嬉しい?
霞澄は、泣き笑いみたいに口角を歪めた。
三年前なら――この知らせを聞いた瞬間、手放しで喜んだはずだ。たったひとりの姉が生きているのだから。
でも今は違う。
三年間。尊厳を踏みにじられ、罵られ、侮辱され、挙げ句は退学までさせられて、大学院への道すら奪われた。
これで、どう喜べというの。
「答えて。どうして、こんなことしたの」
霞澄は、希実が仕掛けてくる“悪者になりたくない罠”に乗らない。
「え、えーっと……」希実の目がくるくる回る。「ねえ、トイレで話す? ていうか、ちょっと待って。先に用足してから――」
引き延ばしだ。
霞澄は希実の腕を掴み、離さない。
「説明するまで、どこにも行かせない」
しつこさに、希実の表情が露骨に歪んだ。
「そんなに理由が知りたい? いいよ。教えてあげる。あんたを弄んで遊びたかっただけ。満足?」
いったん口を開けた悪意は、もう止まらなかった。
希実は霞澄を、仇でも見るみたいに睨みつける。
「誘っても誘っても、勉強だ本だってさ。何その努力家ごっこ。『落ち着いてて優秀』『お姉ちゃんみたい』って褒められて、気持ちよかったんでしょ? だから叶えてあげたの。松本家の“一人娘”、三年やってみたら? どう? いい気分だった?」
霞澄の悪夢みたいな三年が、こんなくだらない理由だったなんて。
怒りが一気に血を沸かせる。霞澄の手が、勝手に上がった。
希実は鼻で笑う。
「叩く気? 松本霞澄、今日私に手ぇ出したら、パパもママも廷治も、絶対あんたに報いを受けさせるから。やってみなよ」
そう言って、わざと頬を差し出した。
霞澄は歯を食いしばる。脳裏に浮かぶのは、希実に“いい子の顔”で陥れられてきた場面ばかり。胃の奥がむかむかして、吐き気がこみ上げる。
姉妹仲が良かったことなど、最初からほとんどない。
ただ、希実の「死」がすべての摩擦を薄め、霞澄だけを“罪の肩代わり”にした。
「ほら、やっぱりビビり。どうせ――」
「パァン!」
挑発の言葉を叩き落とすように、霞澄の掌が容赦なく振り下ろされた。
全身の力を乗せた一撃。希実はその場で尻もちをつき、頬がみるみる赤く腫れ上がる。
「……っ! あんた……ほんとに殴った!? 死にたいの!?」
怒りで声が裏返る希実に、霞澄は冷え切った目を向けた。
「うん。あんたと一緒に死んでもいいって思ってる。信じる?」
淡々とした声が、かえって怖い。
希実の顔色がさっと変わった。
気づけば霞澄の姿はもうなかった。
希実は地団駄を踏み、吐き捨てる。
「松本霞澄! 覚えてなさいよ!」
霞澄は幽霊みたいにふらふら歩きながら、希実の言葉を反芻していた。
――パパもママも最初から知ってた。私のこと、丸め込んでくれるって。
――今日私に手を出したら、パパもママも廷治も、絶対あんたに報いを受けさせる。
分かっていた。両親は、明るく愛想のいい希実ばかり可愛がり、無口で内向的な自分を疎んじてきた。
言うことを聞いて、いい子でいれば――いつか少しは愛してもらえる。
そう信じていたのは、自分の独りよがりだったのだ。
緒方廷治の婚約話を聞いた母が、あれほど怒り狂って「役立たず」と罵った理由も、今なら分かる。
両親は最初から最後まで、希実だけを無条件で甘やかしていた。
偽装の死でさえ隠してやる。
自分は――どうでもいい道具。
ぼんやりしたまま個室の扉を押し開けると、羽田絵亜はどこかへ消えていて、ホストだけが残っていた。
改めて見ると、全員そこそこ整っている。
なかでも真ん中の男が、とびきりだった。鋭い輪郭に、奥行きのある眼差し。派手なのに、どこか育ちの良さが滲む。帝都の貴公子と呼ばれる緒方廷治にすら、引けを取らない。
霞澄はまっすぐその隣に座った。
「注いで」
かつての自分は潔癖で、恋愛ひとつしたことがなかった。
なのに返ってきたのは、緒方廷治の軽蔑。
希実みたいに、バーを家みたいにして、男と抱き合ってキスして――それくらいしないと、好かれないの?
自分が極端に走っているのは、分かっている。
「いや、君……」
別のホストが眉をひそめかけたが、真ん中の男が視線ひとつで制した。
男は面白そうに霞澄を眺め、グラスに酒をなみなみ注ぐ。
「どうぞ」
霞澄は腹を括り、一気に飲み干した。
「げほっ……!」
喉が焼けるみたいに辛い。涙が出そうになるほど、辛い。
それでも落ち着くと、もう一杯が欲しくなった。
酔えば、忘れられる気がした。
この残酷な現実を。
一杯、また一杯。
ホストたちは「強い」「最高」と大げさに持ち上げ、気分を上手に煽ってくる。
そして霞澄は、見事に記憶を飛ばした。
次に目を開けたのは、翌日の昼。
割れそうな頭を抱えて起き上がると、昨夜の断片が雪崩のように押し寄せる。
生きていた松本希実。
やたら褒めてくるホストたち。
そして――最後に自分がやったこと。
あのいちばんイケメンの服を、勢いよく引き裂いた。
霞澄は息を呑む。
私、酒癖……最悪だ。
