第5章

男の力は、女とは比べものにならない。松本霞澄はその場で意識を手放した。

次に目を開けたのは深夜だった。自室のベッドに横たわっている。腰が痛い。腹も痛む。頬もじんじんする。

いちばん苦しいのは心で、その苦しさに耐えきれず、霞澄はベッドの縁に身を乗り出して胆汁を吐いた。

昨日から今日にかけて、口にしたのは少しの酒だけ。吐きたくても、吐けるものなど残っていない。

そのとき、寝室のドアがきい、と開き、細い灯りが差し込んだ。

松本霞澄は背筋を伸ばした。こんな無様な姿を見られたくない。

両親も、松本希実も。誰ひとり、自分を家族として扱わない。心配もしない。なら、弱さを晒して笑われる筋合いもない。

「霞澄様……大丈夫でいらっしゃいますか」

その声を聞いて、霞澄は――また勝手に期待していたのだと気づく。

やって来たのは両親でも希実でもなく、家の手伝いをしてくれている長島さんだった。

長島さんは甘い飲み物の入ったカップを手にし、そっとナイトテーブルへ置く。

「黒糖水です。少し飲めば、楽になりますよ」

気遣う言葉に、鼻の奥がつんとした。

この家で、血の繋がらない長島さんだけが、霞澄にほんの少しのぬくもりをくれる。

カップを受け取り、迷ってから、どうしても堪えきれずに尋ねた。

「……みんなは?」

長島さんは痛ましそうに目を伏せる。

「旦那さまと奥さまは、希実様を連れて、お食事とお買い物へ」

手が震え、黒糖水が少し布団にこぼれた。

松本霞澄は、苦く口元をつり上げる。

――私は本当にしつこい。何度でも、恥をかきに行ってしまう。

長島さんは霞澄を見つめ、これ以上心をすり減らさせたくないのか、話題を変えた。

「お部屋までお支えしたとき、おズボンが少し汚れていたんです。生理ではありませんか? お手洗いで――」

生理……?

胸がどくんと跳ねた。

言われてみれば、もう半月以上、遅れている。

まさか――。

ありえない。

緒方廷治は、毎回きっちり避妊薬を飲ませてきた。……毎回、ではない。

先月初めの出来事が、脳裏に蘇る。

北城の立花婆さんの寿宴。立花家の放蕩息子が霞澄に下品な冗談を投げ、緒方廷治の癇に障った。あの夜、彼は酒を浴びるほど飲み、霞澄を朝まで弄んだ。

彼は酔っていて、彼女は疲れきっていた。避妊薬のことなど、どちらも忘れて――。

日数も、合ってしまう。

松本霞澄は小さく首を振った。

憶測に意味はない。病院で確かめるしかない。

翌朝、上司に一日休みをもらい、都心の病院へ向かった。

産婦人科は混んでいた。結果が出るまで一時間かかると言われ、霞澄は椅子に腰を下ろして待つ。

表情は淡々としているのに、胸の中はぐちゃぐちゃだった。

妊娠していなければ、それでいい。予定通りに動けばいい。

もし妊娠していたら――。

目を閉じても、答えは出ない。

突然、スマホの着信音が鳴り、周囲の視線が集まる。霞澄もびくりとした。

画面に出たのは、緒方廷治の補佐・加賀言の名。

「松本さん、会社で緊急対応が必要です。三十分以内に必ず来てください」

拒否の余地もなく、通話は切れた。

結果が出るまで、まだ四十分以上ある。松本霞澄は仕方なく病院を出て、会社へ戻った。

エントランスをくぐった瞬間、空気が妙だと分かる。

受付の若い女性たちが数人、固まって噂話をしていた。霞澄を見るなり、さっと散って忙しいふりをする。――今の話題は、きっと自分だ。

胸がざわつく。それでも平然を装い、エレベーターに乗った。

秘書室の扉を押し開けた瞬間、理由がはっきりした。

若くて綺麗なアシスタントが十数人、ずらりと一列に並び、貴族めいた雰囲気の女の前で震えている。

新谷明珠。新谷家の令嬢。緒方廷治の政略結婚の相手。

彼女は自分のネイルを眺めるばかりで、松本霞澄に視線すら寄こさない。まるで、安い空気でも見るように。

一人のアシスタントが声を張り上げた。

「新谷様、この人が松本霞澄です! 私たちは真面目に働いているだけなのに、この人だけ社長を誘惑して――!」

松本霞澄は口を開いたが、反論の言葉が出てこない。

望んだかどうかに関係なく、関係があったのは事実だ。

新谷明珠は数秒だけ霞澄を眺め、その視線は品物を見定めるそれに似ていた。

「まあ、確かに綺麗。私の婚約者、見る目はあるのね」

松本霞澄は屈辱に目を伏せる。

周囲は息をするのも怖いといった様子だった。未来の奥さまの機嫌を損ねるわけにはいかない。

新谷明珠は立ち上がり、ゆっくりと言う。

「あなたたちが今まで何を考えていたとしても、私と廷治の婚約は決まったの。これからは汚い欲を捨てて、アシスタントとして働きなさい。もし越えたら……」

そこで意味ありげに松本霞澄へ視線を投げ、口元だけで笑った。

「容赦しない」

アシスタントたちが次々に「承知しました」と答える。

新谷明珠は霞澄の前に立ち、名指しした。

「松本霞澄。分かった?」

胸の奥がざらつく。それでも霞澄は平静を装う。

「分かりました」

だが次の瞬間。

ぱぁん、と乾いた音が響き、新谷明珠の平手が霞澄の頬を打った。

周囲から悲鳴が上がる。

頭が横に弾かれ、唇の端が切れて血が滲んだ。

松本霞澄は信じられず、顔を上げる。

「新谷様……どういう――」

新谷明珠は冷笑し、説明もなく、また手を上げた。

松本霞澄は反射的に避けようとする。

それを見抜いた新谷明珠が、先ほどのアシスタントを顎で示した。

「あなた。押さえて」

アシスタントは一瞬だけ躊躇し、それから嬉しそうに前へ出た。霞澄とは元々折り合いが悪い。これ以上ない仕返しの機会だ。

体調の悪い松本霞澄は、あっさりと拘束される。

新谷明珠は霞澄の顎を掴んだ。長い爪が皮膚に食い込み、痛みが走る。

「私が二発叩くって言ったら、黙って受けなさい。避けるなんて、何様?」

松本霞澄は唇を噛みしめた。

誰も、彼女の意思など尊重しない。

新谷明珠が腕を大きく振りかぶる。気絶させるつもりの一撃。

その手が振り下ろされる直前――骨ばった、大きな手が彼女の手首を掴んだ。

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