第6章
オフィスに、再びどよめきが走った。
「緒方社長!」
松本霞澄はゆっくりと目を開く。緒方廷治が、新谷明珠を止めるなんて――想像もしていなかった。
新谷明珠は不機嫌そうに唇を尖らせた。
「廷治、どうして止めるの?」
探るような視線。
緒方廷治はその流れのまま新谷明珠の手を取り、指の腹で掌を二度、そっと撫でた。
「手を痛めるな」
たったそれだけ。
新谷明珠の機嫌は嘘みたいに直り、松本霞澄の心は音もなく底へ沈んだ。
霞澄は視線を落とし、口元に苦い笑みを浮かべる。
――私は、いったい何を期待していたんだろう。
その隙を逃さず、補佐が声を張り上げた。
「新谷嬢の代わりに、私がやります!」
返事を待つこともなく、松本霞澄の頬を左右から容赦なく叩く。
パァン、パァン――。
力が抜け、霞澄はその場にへたり込み、床に座り込んだ。
それでも補佐は止まらない。霞澄の髪を掴み、無理やり顔を上げさせようとする。
あまりに残酷で、秘書室の何人もが顔を背けた。
緒方廷治がわざとらしく大きく咳払いし、苛立った声で吐き捨てる。
「馬鹿げてる。ここは会社だ。私怨があるなら外でやれ」
そして新谷明珠へ、さらに冷たく言った。
「これで満足か」
新谷明珠は賢かった。そこで引く。
緒方廷治の腕に絡みつき、甘ったるい声を作る。
「分かってるわ。会社じゃ影響があるものね。行きましょ」
二人は並んで秘書室を出ていった。
床に伏したままの松本霞澄の視界に映るのは、革靴とハイヒールだけ。歩幅まで揃っていて、やけに似合っていた。
霞澄は喉の奥にこみ上げる鉄の味を、咳で押し戻す。
――この瞬間、決めた。
緒方グループを辞める。
それだけじゃない。松本家にも、もう帰らない。
*
松本霞澄は二晩かけて新しい部屋を借りた。
その二日間、実家には戻らなかった。両親からの電話もない。緒方廷治からも、何の連絡もない。
口では「終わりはない」と言いながら、結局は新谷明珠との婚約で手いっぱいなのだろう。霞澄に構う余裕など、最初からない。
ところが新居に入った初日、思いがけない来客があった。
松本家の当主と、夏目乙美。
しかも手ぶらではない。父は高級な牛肉や羊肉を提げ、母は着替えを数着抱えている。
まるで普通の親のように、霞澄の戸惑いをよそにソファへ腰を下ろした。
「霞澄。希実と一緒が嫌なら、出てくるのは正解だ。このカードに少し入ってる。先に使いなさい」
父はキャッシュカードをローテーブルに置く。
なのに、嬉しくない。
胸の奥が、ひんやり冷えていく。
松本霞澄は静かに二人を見た。
「どうして住所が分かったの? それで、今日は何の用?」
母は短気だ。霞澄が受け取らないと分かると、すぐ目を吊り上げる。
だが父は妻の手の甲を宥めるように叩き、霞澄に向かって泣いた。
「霞澄……お前だって二十年以上育てた娘だ。愛していないわけがない。お前はいつも聞き分けがよくて、手がかからなかった。だけど姉さんは問題ばかりで……どうしても目が向いてしまった。仕方なかったんだ」
父が泣く。
あの寡黙で厳しい父が――。
その事実だけで、霞澄の心がぐらりと揺れた。
隣の夏目乙美も、夫につられたように声を落とす。
「霞澄……確かに今まで、委屈させたかもしれない。でも血の繋がりがあるのよ。若い女の子が一人暮らしなんて、心配に決まってるでしょ」
霞澄は唇を噛み、何も言えない。けれど目の揺らぎだけは隠せなかった。
父はその変化を見逃さず、畳みかける。
「希実の“死んだふり”のことは、お母さんと叱った。確かにあいつが悪い。霞澄、お前に申し訳ない。これが片づいたら、あいつは海外へ出す。どうだ?」
父が、希実の偽装を認めた。
驚いたが――考えれば当然だ。あの作り話は、霞澄ですら騙せなかったのだから。
霞澄は小さく息を吐き、立ち上がって湯を注ぎに行った。
父と母が視線を交わす。
「霞澄。考えたんだ。希実は長女だが未熟だ。お前のほうが賢くて堅実だ。会社は――お前に継がせようと思う」
その言葉に手が滑り、ポットが床へ落ちた。
熱い湯がばしゃりと広がる。
片づけようと身を屈めるより早く、父が動いた。
「俺がやる。お母さん、霞澄に話を」
今日の両親は、異様に優しい。
優しすぎて、怖い。
霞澄は不安を押し込め、母を見た。
「霞澄ね」
夏目乙美は回りくどいことができない。まっすぐ言う。
「お願いがあるの」
嫌な予感が、背筋を這った。
母は続ける。
「希実が悪いことをしたのは分かってる。でも松本の名を背負ってる以上、あの子の評判が落ちたら、お父さんも私も、あんたも困るの。分かる? だから――お姉ちゃんの偽装の責任、あんたが引き受けて」
松本霞澄は眉を寄せた。
一語一句は理解できるのに、文になると意味が崩れる。
「……どういうこと?」
母は髪に触れようとして避けられ、苛立ちを露わにする。
「来月、宴会を開いて希実が生きてるって正式に発表する。そのときこう言うの。『希実はあんたと喧嘩して、カッとなってああいうことをした』って。で、あんたがみんなの前で希実に謝る。それで終わり」
耳を疑った。
それが「責任を引き受ける」?
姉を追い詰めた、逼死した――その悪名を背負わされる人生を、考えたことがあるのか。
堪えていた涙がぽろりと落ち、服を濡らす。
けれど母は娘の涙など意にも介さず、声を荒らげた。
「返事しなさい!」
