第8章 緒方廷治、私が妊娠した

緒方廷治にまた辱められたというのに、松本霞澄の胸は不思議と少し軽かった。

宴会さえ終われば――この日々を、終わらせられる。

空白をなるべく作らないため、彼女は十数社に履歴書を送り、週末は面接を詰め込んだ。

けれど、まさか。

あの日、自分がやらかした相手――あの端正なホストと、また顔を合わせることになるなんて。

今の彼は高級なオーダースーツに身を包み、縁なし眼鏡をかけ、オフィスチェアにきちんと座っていた。ホストの軽さなど欠片もない。

霞澄が入室すると、彼は柔らかく笑って言う。

「やあ。覚えてる?」

松本霞澄は唇を噛んだ。

忘れられるものなら、忘れてしまいたい。

「先日は本当に申し訳ありません。個室を間違えて……人違いで。失礼なことをしました。謝らせてください」

男はからりと笑った。

「気にしないで。じゃ、改めて自己紹介。時川樹。今日の面接官だ」

明るい口調なのに、霞澄はどうしても身構えてしまう。あの夜のことを根に持って、面接で仕返しされるかもしれない――そんな不安が消えないまま、質問には一つずつ慎重に答えた。

終盤、時川樹が履歴書に目を落とし、ふと顔を上げる。

「松本霞澄さん。専攻は生物化学で、帝都大学卒。どうして専門職を選ばなかった?」

その一言で、霞澄の足が止まった。

――どうして。

それは、彼女の人生でいちばん触れられたくない場所だった。

霞澄の表情が曇ったのを見て、時川樹はすぐ片手を上げる。

「ごめん。詮索のつもりじゃない。ただ、友人の生物化学チームが人手不足でね。履歴書を見て、君は合いそうだと思ったんだ。……今も、専門に戻る気はある?」

その言葉が、胸の痛みにそっと蓋をした。

戻れる?

自分が、あの場所へ。

「わ、私……できますか。もう三年も――」

言い切る前に、時川樹が笑って遮る。

「言い方は悪いけど、君の分野って進歩のスピード、そこまで異常に速いわけじゃない。三年なら、十分取り戻せる」

心臓が、どくん、と跳ねた。

けれどすぐに理性が引き戻す。

この人は、たった一度会っただけの他人だ。期待しすぎてはいけない。

霞澄は深く息を吸い、丁寧に頭を下げた。

「ありがとうございます。少し考えさせてください。時川さんも……私を採るかどうか、よく考えてください」

時川樹はまっすぐ言った。

「君は良い。もし友人のところに行かないなら、うちは採りたい。俺が欲しい」

言葉だけ取れば艶っぽいのに、声音が妙にまじめで、霞澄は呆けてしまう。

緒方グループの三年間。

彼女の仕事は雑用に近かった。複雑な案件をこなしても、褒められるどころか、当たり前のように奪われるだけだった。

そんな自分を、ここまで肯定されると――落ち着かない。

「……今日は失礼します」

慌てるように立ち上がり、霞澄は部屋を出た。

廊下へ出たところで、背後から足音が追ってくる。

「松本嬢」

呼び止められ、霞澄は肩を強張らせた。

「よかったら、飯でもどう?」

反射的に断ろうとした瞬間、時川樹が先回りする。

「君が奢ってくれてもいい。あのバーの個室で、俺に吐いて新品の服を台無しにしたから」

逃げ道が塞がれた。

「……分かりました。お詫びとして」

二人は、評判だという新しいレストランに入った。

二階の個室は予約制らしく、結局一階の窓際の席へ。

時川樹は見た目こそ冷ややかで鋭いのに、会話は驚くほど上手かった。気づけば霞澄も、久しぶりに声を出して笑っていた。

食事を終え、連絡先を交換し、彼は車でマンションの前まで送ってくれた。

松本希実が「死んで」から、霞澄はまともな社交などほとんどしてこなかった。ましてや異性と、こんなふうに言葉を交わすことも。

時川樹に特別な感情があるわけじゃない。

ただ――新しい生活の匂いがした。胸の奥が、ふわりと浮き上がる。

その心は、入口に立つ男の姿で一瞬にして凍りついた。

緒方廷治。

逃げたい、と思った。

その場で踵を返して走り出したいくらいだった。

彼は陰鬱な顔で立っている。静かなのに、怖い。

霞澄は何とか平静を貼りつけ、事務的に尋ねた。

「緒方社長。ご用件は何でしょうか」

緒方廷治は顎でドアを示す。

「中に入れてくれないのか」

声は落ち着いているのに、嵐の前触れみたいだった。

霞澄は硬い指で鍵を開け、扉を押し開ける。

その瞬間、目に飛び込んできた。

テーブルの上の妊娠検査の報告書。

見たあと、片づけもせず置きっぱなしにしていた――。

血の気が引いた。

こんな目立つ場所にあれば、緒方廷治が気づかないはずがない。

気づいたら、彼はどうする?

考えただけで胃がきりきりと痛む。

立ち尽くす霞澄の背後から、男の腕が伸びた。

がばっと抱きすくめられ、息が詰まる。

大きな手が腰に落ち、揉みつぶすように触れてくる。声まで熱を含んだ。

「松本霞澄……命知らずだな。俺に黙って、他の男と会うとは」

恐怖が、背骨を這い上がる。

どうして知っているの?

――監視されている?

ぞわりと鳥肌が立つ霞澄をよそに、緒方廷治は耳朶を含み、彼女を寝室の方へ押しやった。

「いい。何日か空いたしな。俺が満たしてやらなかったから、他所へ行ったんだろ」

屈辱で、喉の奥がねじれる。

いつもそうだ。言葉で、平然と踏みにじる。

今までは耐えた。

でも今は――嫌だ。

霞澄が抵抗すると、緒方廷治の苛立ちが燃え上がった。

壁へ押しつけられ、唇を乱暴に塞がれる。

「松本霞澄。お前に『嫌だ』と言う権利はない」

彼は認めたくなかった。

匿名メールに添付された写真を見たとき、胸の奥にちりりとした痛みが走ったことを。

――松本霞澄が、あんなに明るく笑うなんて。

しかも、他の男の前で。

腹が立った。

だから新居まで押しかけた。

今日は何を言われても、奪う。そう決めていた。

服がびり、と裂けた瞬間、霞澄は完全に青ざめた。

緒方廷治は、行為の最中になると歯止めが利かない。ほとんど毎回、霞澄は意識を飛ばした。血が出たことだって、ある。

今、もし抱かれたら――腹の子が危ない。

「緒方廷治……お願い、やめて。今日、本当に具合が悪いの」

拒むほど、彼の手はさらに荒くなる。

指が太腿の間へ滑り込み、霞澄は息を呑んだ。

「すぐ気持ちよくなる」

押し殺しきれない欲の声。

霞澄は腹をかばうように力を込め、震える息で言った。

「……妊娠してるの」

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