第1章 離婚しよう!
黒崎恒一は、まさか自分が妻にベッドへ押し倒される日が来るとは思ってもみなかった。両手を縛られた瞬間、男の表情が一変する。整った顔立ちが、怒りで歪んだ。
「桜井瑞希……お前、俺に薬を盛ったな!」
「何年も奥さんやってきたんだもの。狙いはこれでしょ? ねえ、旦那さま。今日が私の誕生日だって覚えてる? あなたを――プレゼントにするの」
桜井瑞希の細長い指が、ゆっくりと男のシャツのボタンを外していく。露わになる引き締まった胸板。認めたくないが、この男は本当に、理性を奪う顔と身体をしていた。
端正な目鼻立ち、高い鼻筋、くっきりした輪郭。けれど何より――あの深い瞳。鋭く、冷たい光を宿している。
黒崎恒一は、目の前の女を睨みつけた。黒めの肌に、野暮ったい眼鏡。垢抜けない雰囲気が全身から滲んでいる。その女が今、上から彼を見下ろしていた。
男は目を細める。そこに宿るのは、危険な気配。
「……つまり、今日が水野優奈を迎えに行く日だから、俺に薬を盛った。そういうことか。忘れるな。お前の家が潰れたから、仕方なく娶ってやっただけだ。四年の期限は終わった。約束通り離婚しろ」
桜井瑞希は、彼の苛立ちを見て胸の奥がきしんだ。けれど表情は氷のように冷たいまま、微動だにしない。
「安心して。黒崎さんが私を満足させてくれたら――あなたの高嶺の花に、会わせてあげる」
四年前。彼女は周到に、実家の破産を偽装した。彼の妻になるために。
それでも結局――「元カノが泣けば、今カノは負ける」。そんな言葉通りになった。
一週間前、彼の元恋人が帰国すると告げた。
四年。彼女は必死に、彼に愛されようとした。
それでも負けた。だが、四年を無駄にする気はない。だから今日だけは――この男を手に入れる。
桜井瑞希はボタンを外し続け、身を寄せて囁いた。甘く、毒のある声。
「黒崎さん、やっぱり身体がいいですね。水野優奈が忘れられないのも分かる。でも今回は――私が先にいただきます」
黒崎恒一の眉間に陰が落ちる。冷酷さと陰鬱が、端正な顔を覆った。
「桜井瑞希。警告する。解かないなら――桜井家ごと葬る」
普段は大人しく従順に見えた女が、今夜は大胆不敵に彼の上で暴れている。
――この女、いったい何者だ。
桜井瑞希は妖艶に笑い、彼の耳たぶを軽く噛んだ。
「美人のためなら死んでも本望、って言うでしょ。あなたは牡丹じゃないけど……まあ、数合わせにはなるかな」
言い終えるや、片手でベルトに指をかける。だが次の瞬間、手首をがっちり掴まれた。
男の瞳が、一気に冷え切る。怒気が爆ぜた。
「そんなに焦ってるのか。俺に抱かれたいだけだろ? ……叶えてやる」
いつ縄を解いたのか分からない。視界がぐるりと回り、体勢が逆転する。
熱い息が降りかかり、逃げ場のない圧が彼女を包み込んだ。
……嵐が過ぎ去った。
黒崎恒一は、まるで何事もなかったかのようにシャツのボタンを一つずつ留めていく。さっきまでの情欲など、どこにも残っていない。氷のような目。
桜井瑞希は散らかったシーツを見つめ、伏し目になった。
そして、静かに言った。
「黒崎恒一。離婚しましょう」
男の上着を羽織る手が止まる。眉がきつく寄った。
「……何だと?」
