第3章 人違いではありませんか
最新型のランボルギーニが、幹線道路を猛然と駆け抜けていた。
車内には、陰の気を纏った男がひとり。深い瞳は冷えきっていて、近づくことすら許さない。
「黒崎社長。確認できました。このまま1,000m進めば到着です」
秘書の鈴木謙介がノートパソコンを開き、指定された住所を照合している。半時間前、何者かが会社のシステムに侵入し、核心技術を抜き取ったうえで、場所まで残していったのだ。
――2時間以内に黒崎恒一が来なければ、技術を他所へ売る。
長年、商界で帝国を築いてきた黒崎に、こんな露骨な脅しを叩きつける者などいなかった。
いったい誰が、そんな度胸を持つ。
今日は必ず、その顔を拝んでやる。
その頃、桜井瑞希は親友の葉山静香と外で会い、子どものことを相談していた。祖父の容体が悪く、帰国後は会社を継ぐため、しばらく忙しくなる。
葉山静香は目の前の瑞希を見つめる。かつての青さは消え、澄んだ瞳の奥に、どこか冷ややかな孤高さが宿っていた。
恋のためなら命も投げ出しかねなかったあの頃を思うと、胸が痛む。
「黒崎恒一、あの女と婚約するんだって。しかも妊娠してるって噂よ。瑞希……結局、あんたを裏切った」
「平気。今の私にとって、あの人はもう重要じゃない。あの結婚で後悔してないのは、由衣と颯太を産めたことだけ。あの子たちがいなかったら、今の生活、きっと退屈だったと思う」
離れたあと、偶然妊娠に気づいた。産むか迷ったのに、病院で双子だと告げられた瞬間、迷いは消えた。
それでも静香の不安は消えない。
「でも、今戻ってきて黒崎恒一に知られたらどうするの? あの人、どれだけ独占欲が強いか知ってるでしょ。由衣と颯太を見たら……私、怖い」
「大丈夫、静香。今の私は守れる。絶対に奪わせない」
「でも……顔は……」
そのとき。
「黒崎社長。正確な位置は、ここです」
鈴木謙介がタブレットを確認する。指定された場所は、まさにこのカフェだった。
黒崎恒一は陰鬱な顔のまま周囲を見渡し、鋭い視線を走らせる。そして少し離れた3番テーブルへ。コーヒーテーブルの上にはノートパソコンが一台。
男の唇が冷たく歪んだ。
「……あいつだ」
瑞希は静香との話を切り上げ、今日まとめた各社の資料を保存し終えると、由衣と颯太を呼んで帰ろうと立ち上がった。
次の瞬間、硬い胸板にぶつかる。
馴染んだ匂いに、心臓がひゅっと縮んだ。
顔を上げる前に、男の声が落ちてくる。冷たく、骨まで凍るほどの声。
「お前か。うちのバックエンドをハックしたのは。しかも俺を脅して、核心技術を売るだと……ん?」
四年ぶりの再会に意識を引きずられていた瑞希は、その言葉で現実に引き戻された。
ゆっくりと目を上げ、唇に嘲りを浮かべる。
「お客さん、人違いじゃないですか。誰があなたの会社をハックしたって?」
黒崎恒一は、その顔を見た瞬間、動きを止めた。
陰を湛えた瞳に、ほんの一瞬だけ――驚きが走る。
