第5章 母泣かせのプロ
桜井瑞希は、黒崎恒一の思考回路に心底うんざりしていた。前はこんなに自意識過剰な男だなんて思わなかったのに――今さら気づくなんて、自分は当時よほど節穴だったのか。
とはいえ、いつもの結論に戻る。こいつの独善的で傲慢で面倒くさい性格を差し引いても、顔とスタイル、そして――とくにベッドの腕だけは、文句のつけようがないのも事実だった。
瑞希は大きく息を吸い込み、胸の奥で渦巻く怒りを押し込める。
「黒崎社長。あなた、病院で頭を診てもらったほうがいいんじゃないですか? 私が駆け引きしてるって……どの目で見たらそうなるんです?」
駆け引き? そんな回りくどい真似、彼女はしない。
やるなら正面から押し倒す。それだけだ。
一方の葉山静香は、とにかく一刻も早くこの場を離れたかった。ここに長居すればするほど、瑞希の正体が露見する確率が上がる。
静香は慌てて声を和らげる。
「黒崎社長、きっと誤解です。私たちはただコーヒーを飲んでいただけで、御社のシステムに侵入なんてしていません」
黒崎恒一が指を軽く動かすと、鈴木謙介がさっとタブレットを差し出した。
「これが、お前たちが残した証拠だ」
瑞希が画面を覗き込む。表示されている場所は、まさにこの店。精度が異様に高く、あと少しでテーブル番号まで出そうな勢いだ。そのうえ下には挑発文まで添えられていて、露骨に黒崎恒一を脅している。
でも、彼女は何もしていない。
この男とは関わりたくて仕方がないのに、こんな手でわざわざ呼び寄せる? 正気の沙汰じゃない。
――待って。
まさか、あの二人?
瑞希は視線を遠くへ投げた。少し離れたところで、二つの小さな影がこそこそとこちらを覗き込み、こちらの様子を一部始終見物している。瑞希の探る目とぶつかった瞬間、二人は「やばっ」という顔で、そそくさとそっぽを向いた。
瑞希の心が、すとんと底へ落ちる。
――この子たち、母親を落とすプロか。
目の前の女が黙ったのを、黒崎恒一は黒だと決めつけた。
「言い訳は終わりだ。連れて行け」
「待って」
瑞希は即座に否定した。たとえ犯人が自分の子でも、ここで認めるわけにはいかない。
「私が駆け引きしてるって言うなら、証明してあげます。あなたに興味なんてない。パソコンはここ。好きに調べてください。でも――何も出なかったら、あなたが私に謝って」
黒崎恒一は無言で、瑞希の手からノートパソコンをひったくるように抜き取った。眉ひとつ動かさない。
「出なくても、お前の目的が純粋だとは思わない。このカフェでパソコンを開いてるのは、お前だけだ」
瑞希がぎょろりと店内を見回す。
……本当に、自分だけだった。
今日は何の厄日だ。いつもなら作業している客が何人もいるのに、よりによって今日に限って。
黒崎恒一はノートパソコンを鈴木謙介へ渡す。謙介がしばらく操作し、眉をひそめて報告した。
「黒崎社長……確かに何も出ません。ただ、痕跡を消された可能性は――」
「ちょっと!」
瑞希が噛みつくように遮った。
「言い方に気をつけてください。名誉毀損で訴えますよ。『消した可能性』って何ですか。常識で考えて、侵入してたなら痕跡なんて完全に消えません。もし私が本当にやってたなら、きれいさっぱり消えるわけないでしょ?」
黒崎恒一はノートパソコンを受け取り、意味深に瑞希を見た。
「そこまで分かってるなら、無関係だと言い切れるか。警告しておく。核心資料が他所に渡ったら――お前を絶対に許さない。謙介、行くぞ」
「はい」
黒崎恒一は部下を引き連れ、ぞろぞろと店を出ていった。
「まだ謝って――黒崎恒一、待っ……!」
瑞希が追いかけようとしたところで、静香が袖を掴む。
「もういい、瑞希。今は慎重に。もし本当に目をつけられたら……あなたの正体、遅かれ早かれバレる」
ガラス扉の向こうで、二人の子どもがぺたりと張りつき、黒崎恒一が車に乗り込むのを見送っていた。由衣は目をきらきらさせ、うっとりした声を漏らす。
「お兄ちゃん、パパ……すっごくかっこいい。映画の人みたい」
「見るな」
兄の声は妙に落ち着いている。
「今回の目的は達成。パパとママを会わせることはできた。でもパパはママに気づかなかった。次は、二人がもっと一緒にいる時間を増やす」
そして、由衣は小さく付け足す。
「さっきパパのシステムに入ったついでに、ママの履歴書……人事に入れといたしね」
