第4章
宮下に支えられてバーを出た時、明け方の冷たい風が襟元から入り込んだ。
「一人で帰れますか?」
彼が尋ねる。
「帰れる」
私は彼の手を振り払い、少しよろめいた。
「子供じゃないんだから」
結局、三歩歩いたところで、道端のゴミ箱に頭から突っ込みそうになる。
「無理そうですね」
宮下はため息をつき、再び私の肩を支えた。
「住所は?」
住所を告げるが、頭の中は混沌としていた。アルコールのせいで世界がぼやけ、彼の手のひらの温もりだけが妙に鮮明だった。
家に着くと、鍵を見つけるのに随分とかかった。宮下がそれを受け取ってドアを開けてくれるなり、私は玄関に倒れ込んだ。
「三村さん?」
「呼ばないで」
私は目を閉じたまま手を振る。
「少し寝かせて」
「床の上だと風邪を引きますよ」
彼は私を起こした。
「寝室はどちらですか?」
私は朦朧としながら方向を指差す。
目覚めると、日差しが眩しかった。
目を開けるとベッドの上で、毛布が掛けられている。化粧は落としていないが、靴はベッドの脇に綺麗に揃えられていた。
リビングから微かな物音が聞こえる。
私は勢いよく上半身を起こした——宮下?
寝室のドアを開けると、彼はキッチンに立っていた。シャツの袖を肘までまくり上げ、私がほとんど使ったことのないエプロンをつけている。
「起きましたか?」
彼が振り返る。
「朝食を買ってきました。先に顔を洗ってきてください」
私は彼を三秒ほど凝視し、きびすを返して洗面所に駆け込んだ。
鏡の中の自分は化粧が崩れ、アイラインが滲んでパンダ目になり、口紅が顎まで伸びていた。
私は目を閉じる。三村麻由、昨夜一体何をしたの?
「すみません」
顔を洗って戻り、テーブルにつく。
「昨夜は飲み過ぎて」
「見てればわかります」
宮下はサンドイッチを私の前に差し出した。
「玄関で二十分近く寝てましたよ」
顔がカッと熱くなる。
「それに、いろいろ喋ってましたしね」
彼は水を注ぎながら言う。
「まあ、酔っ払いの戯言だと思って、忘れますから」
私はコップの水を一気に煽り、昨夜の記憶を必死に手繰り寄せた——確か泣いた? 何か『愛人契約のルール』とか言ったような?
最悪だ。
「送ってくれてありがとう」
私はサンドイッチを齧りながらうつむく。
「朝食も」
「当然のことをしたまでです」
宮下は腕時計に目をやった。
「そろそろ行きます。ゆっくり休んでください」
リビングのドアが閉まった瞬間、湯気の立つコップを見つめ、また顔が熱くなった。
三村麻由、しっかりしなさい。朝食を作ってくれた男ってだけでときめいてどうするの。
その時、玄関の外から鍵が回る音がした。
私と宮下は同時に固まった。
「三村?」
高木覚の声がドア越しに響く。酒の臭いと苛立ちを含んだ声だ。
「開けろ」
私は宮下を見た。彼はすでに立ち上がり、私を庇うように前に立っていた。
「開けてはいけません」
彼は声を潜める。
だが、鍵はすでに鍵穴に差し込まれていた——私の家族はまだ離婚のことを知らず、彼は執事から合鍵を手に入れたのだ。
ドアが押し開かれた瞬間、高木覚はその場で固まった。
彼の視線が私から宮下へ、そしてまた私の顔へと戻り、次第に鋭さを増していく。
「誰だ、こいつ?」
「友達よ」
私は立ち上がる。
「何しに来たの?」
高木覚は私を無視して宮下を三秒ほど睨みつけると、突然鼻で笑った。
「友達? 三村、お前はずいぶんと友達を作るのが早いんだな」
彼は酒の臭いと、知らない香水の匂いを漂わせながら入ってきた——また桜井三晴のシャネルだ。
宮下が半歩前に出た。
「高木さん、麻由さんは飲み過ぎたんです。私が送ってきました。今は休息が必要です」
「休息だと?」
高木覚はテーブルの上の二つのビール缶を一瞥した。
「二人でこんな時間まで飲んでおいて、送る必要があるのか?」
彼は宮下に近づき、鼻をひくつかせた。
「お前、汗臭いぞ」
心臓が大きく跳ねた。
宮下のシャツは確かに汗で滲んでいた——私を抱えて階段を上がった時の汗だ。
「俺が死んだとでも思ってるのか?」
高木覚が突然私に向き直り、声を張り上げる。
「三村、離婚届もまだ出してないのに、そんなに待ちきれないのか?」
「言いがかりはやめて」
私は携帯電話を握りしめた。
「宮下とは何もなかったわ」
「何もなかった?」
彼は冷笑する。
「じゃあなんでこいつが家にいる? なんで明け方まで飲んでた? なんでシャツがこんなに濡れてるんだ?」
問いの一つ一つが、ナイフのように突き刺さる。
私は口を開いて説明しようとしたが、言葉を飲み込んだ。
何を説明するの? どうして私が彼に説明しなきゃいけないの?
「高木さん」
宮下の声は冷ややかだった。
「あなたに彼女を問い詰める資格はない」
「資格がないだと?」
高木覚が笑い声を上げる。
「俺は夫だぞ!」
「浮気をした時、自分が夫だという自覚はあったんですか?」
空気が凍りついた。
高木覚の顔色が瞬時に土気色に変わる。
私は宮下を見た。彼は無表情で高木覚を見据えているが、その瞳には見たこともない鋭さが宿っていた。
「きさま……」
高木覚は宮下を指差し、その指先を震わせている。
「一体何様のつもりだ?」
「私が何者かは重要ではありません」
宮下は一歩前に出た。
「重要なのは、あなたが今すぐ出て行くべきだということです」
男二人が対峙する。その距離は半メートルもない。
私はふと、滑稽さを感じた。
二ヶ月前、私はまだ高木覚が他の男に嫉妬してくれることを夢見ていた。その光景が現実になった今、私はただ彼ら全員に消えて失せろと思っていた。
「宮下」
私は口を開いた。
「先に帰って」
宮下が振り向く。その目には心配の色が浮かんでいた。
「大丈夫だから」
私は彼に精一杯の笑顔を向けた。
「送ってくれてありがとう」
彼は数秒沈黙し、最後に小さく頷いた。
「何かあったら電話してください」
そう言うと、彼はジャケットを手に取り、高木覚の横を通り過ぎていった。
ドアの閉まる音は軽かったが、部屋中の空気をすべて持ち去ってしまったかのようだった。
