第2章 人喰いの悪魔?

木の階段が、歯の根が浮くようなぎぃ……という悲鳴を上げた。上へ行くほど、黴と排泄物の混じった悪臭が濃くなる。

屋根裏に灯りはない。掌ほどの小さな天窓から、外の微かな光がかろうじて差し込むだけ。

その光を頼りに、若林星奈は隅に縮こまる小さな黒い影を見つけた。

――子どもだ。

ざらついたロープで錆びた暖房配管に繋がれ、目の前には欠けた餌皿。中身は酸っぱくなった冷や飯が、数口分だけ。

ぶかぶかの古いTシャツを着せられ、露出した腕も脚も麻の棒みたいに細い。肉がほとんどない。

それ以上に、星奈の背筋を震わせたのは、腕に残る傷跡だった。かさぶたになった古傷もあれば、つい最近つけられたばかりの、生々しく血が滲む新しい傷もある。

――自分の息子。若林優斗。

三年。精神科病院の檻の中で、昼も夜も思い続け、生き延びる唯一の理由だった宝物が、犬みたいに繋がれて、陽の当たらぬ隅で生かされている。

「優斗……」

声が出ない。喉が潰れて、掠れた空気にしかならなかった。膝が抜けそうになりながら近づくと、涙が大粒のまま、埃だらけの床へぽとり、ぽとりと落ちる。

声に気づいた子どもが、びくりと震えた。

顔を上げたその小さな顔は西野直人にどこか似ていて、そこに刻まれているのは極端な恐怖だった。

若林星奈の顔を認めた途端、子どもは狂ったように叫んだ。

「ぎゃあ! 狂った女! 人喰いの悪魔が来た!」

三歳の若林優斗は壁際へ必死に縮こまる。勢い余って首のロープが食い込み、深い血の筋が浮いた。

両手で髪を掴み、引きちぎるみたいに泣き喚く。

「心菜ママ助けて! 優斗いい子! 言うこと聞く! ごはん食べない! 悪魔に食べられたくない! 助けてぇ!」

若林星奈の伸ばした手が、空中で凍りついた。

その言葉は錆びた刃物みたいに胸を抉り、えぐった穴をさらにかき回してくる。

人喰いの悪魔? 心菜ママ?

虐待するだけじゃない。この子の心そのものを壊し、母を怪物に仕立てている。

息子が自分の頭を殴りつける自傷を見て、星奈は無理やり足を止めた。今、一歩でも近づけば、子どもはもっと自分を傷つける――それが分かる。

涙が、ふっと止まった。

星奈は高田さんを一度も見ないまま踵を返し、階段を降りた。

パーティー会場の音楽はまだ鳴っている。客はシャンパンを手に、笑い声が弾んでいた。

若林星奈が大股で入ると、視線がまた集まった。

西野直人は山川心菜に甘い声を落としていたが、星奈が視界に入った瞬間、眉間が一気に落ちる。

「警備は死んだのか? なんでこんな人を野放しにしてる!」

若林星奈は人波を割り、まっすぐ西野直人の前へ。

「西野直人! あれはあんたの子よ! 犬みたいに屋根裏へ繋いで……人間なの!?」

場が凍った。

音楽がぶつりと止まる。

山川心菜は怯えたように西野直人の胸へ隠れ、目尻を赤くした。

「星奈……優斗は、たとえ直人の子じゃなくても、私たちはずっと実の子みたいに育ててきたの。どうしてみんなの前で、そんな嘘を……」

「直人の子じゃない?」若林星奈は冷たく笑った。

西野直人は山川心菜を背に庇い、指を鳴らす。

秘書の千葉大翔が即座に出てきて、書類の束を若林星奈の顔へ叩きつけた。紙が散る。

太字の『血縁関係なし』という文字が、客の目の前で躍動した。

「三年前の鑑定に書いてあるだろう!」西野直人は見下ろしたまま吐き捨てる。

「俺に隠れて、よその男の子供を孕んだんだ。命だけ残してやったのは、俺の情けだ!」

周囲が一気に沸騰した。

「不倫の子かよ、だから屋根裏か」

「恥知らずのくせに騒ぐな」

罵声が波のように押し寄せる。

若林星奈は地面の報告書を見つめた。

三年前――この紙切れと、山川心菜が買収した医師の“精神鑑定”が、彼女を地獄へ突き落とした。

「西野直人、実の息子すら認めないあんたは、この女に弄ばれて終わる!」

「黙れ!」

西野直人が首を掴み、若林星奈の身体を持ち上げた。

息が詰まり、視界が白む。星奈は抵抗しない。ただ、背後に隠れる山川心菜を、死ぬほどの執念で見据えた。

山川心菜は口角を上げ、勝ち誇った笑みを浮かべ、挑発するように眉を上げる。

若林星奈は脚を上げ、西野直人の膝へ蹴りを叩き込んだ。

西野直人が痛みに手を緩める。

その隙に星奈は山川心菜へ突進し、平手を振り下ろそうとする。

「やる気か!」

西野直人は素早く髪を掴み、若林星奈を床へ叩きつけた。

「誰か! この人を放り出せ! 今後、西野家に半歩でも近づいたら脚を折れ!」

屈強なボディーガードが突進し、星奈の腕を掴むと、死んだ犬でも引きずるみたいに外へ。

外はいつの間にか暴雨だった。

星奈は別荘前のアスファルトへ投げ捨てられる。粗い地面が掌と膝を擦り裂き、血が泥と混じって流れた。

俯せのまま、若林星奈は大きく息を吸う。雨が目に入り、痛くて開けられない。

山川心菜が高価なドレスに身を包み、西野直人のジャケットを羽織って、星奈の前にしゃがみ込む。

「ふふ……かわいそう。かつて若林家のお嬢さまが、今じゃ溺れ犬みたい」

「あなたね」若林星奈は歯を食いしばる。

「鑑定も、病気の証明も……全部あなたがやったことだ」

「そうだけど?」山川心菜は嗤った。

「それにね。偉そうだったパパも、工事現場でちょっと手を加えさせたの。破産して憤死。ママは今、海外に隠れて息するのがやっとよ」

若林星奈が掴みかかろうとすると、背後のボディーガードに腹を蹴られ、また泥水へ叩き戻された。

「若林星奈、何で私と戦うの? 直人は私の言う通り。西野家も全部、私のもの」

「それに、あの雑種……」

わざと間を置く。若林星奈の指が、ぎゅっと強張るのを見て笑みが深まった。

「私が一言言えば、あの小汚い子はいつでも消える。私が手を下さなくても、自分で自分を壊して死ぬわ」

「生かしておいてあげる。毎日、自分の息子があなたを憎むのを見なさい。犬みたいに私の足元で尻尾を振るのを見なさい」

「一生、苦しみの中で這い回って。二度と浮かび上がれないように」

山川心菜は濡れた裾を嫌そうに払う。

「当ててみて? 毎日飢えさせて殴って、『全部お母さんが言ったのよ』って教え込んだら、今あの子、どれくらいあなたを恨んでると思う?」

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