第3章 帰宅!
豪雨は無数の鞭となって、若林星奈の薄い身体を容赦なく打ち据えていた。
彼女はアスファルトに這いつくばっていた。ざらついた路面に頬を擦り剝かれ、雨水に泥が混じって口の中へ流れ込み、濃い鉄錆びの味が広がる。
三年――病院と呼ばれる生き地獄で、白衣の連中は毎日決まった時間に、正体も知れない薬を彼女へ打ち続けた。
少しでも抵抗すれば。息子に会わせろと叫べば。返ってくるのは高圧電流だけ。
その後遺症が、凍える雨の中で一気に噴き出した。若林星奈の四肢は激しく痙攣し、自分ではもうどうにもならない。骨の隙間という隙間を、何千何万という蟻が這い回り、食い破っていくような痛み。
左脚がひくりと引き攣る。かつてヘルパーに鉄の棒で無理やり叩き折られ、いい加減に繋がれただけのその脚は、今にも身体から引き裂かれそうなほど痛んだ。
彼女は下唇をきつく噛み締めた。血が滲んでも、苦鳴ひとつ漏らさない。
さっきの山川心菜の言葉が、錆びた鋸みたいに胸の奥を何度も往復する。
父は破産に追い込まれ、憤死した。母は海外へ逃げるしかなかった。命懸けで産んだ息子は、西野直人に家畜同然に屋根裏部屋へ繋がれ、腐った飯を食わされ、殴られ、そのうえ実の母を化け物と思い込むよう洗脳までされている。
西野直人。生涯かけて守ると誓った男が、自分の手で彼女の家族を肉挽き機へ放り込んだのだ。
そのとき、ばしゃばしゃと水たまりを踏み砕く、慌ただしい足音が近づいてきた。
若林星奈はやっとのことで顔を上げた。滲む雨の帳の向こうに、見覚えのある影が揺れる。
高田さんだった。
高田さんは古びた黒傘を握りしめ、怯えたように周囲を見回している。ボディーガードの姿がないと確かめてから、ようやく若林星奈のそばへ、そろそろと身を寄せた。
「奥様……」
高田さんは、若林星奈の目をまともに見ることすらできなかった。声は恐怖に引き裂かれ、裏返っている。
「早く逃げてください! こんなところで死ぬ気ですか!」
その瞬間、若林星奈は弾かれたように身を起こした。枯れ枝のような指が高田さんの足首へ食らいつく。爪は一瞬で裂け、血と泥が相手のズボンの裾を赤く汚した。
「高田さん……優斗を……」
掠れた声が震える。
「お願い……あの子を……見てあげて……」
「無理です! 私はただの使用人なんです!」
高田さんは怯えきった顔で脚を振り上げ、彼女を蹴って無理やり振りほどいた。そのまま数歩、よろけるように後ずさる。
「さっき山川さんから電話があったんです! 人を雇って、あなたを事故死に見せかけて轢き殺すって! 大型ダンプがもう向かってます、このままじゃ死体も残りません!」
言い終わるや否や、高田さんは踵を返し、雨の幕の中へ駆け込んでいった。背中はあっという間に闇へ溶ける。まるで後ろから鬼にでも追われているみたいに。
若林星奈は泥水の中へどさりと崩れ落ちた。うつ伏せのまま、両手で地面を掻きむしる。
事故死に見せかけて。
轢き殺す。
――死ねない。
自分がここで死ねば、優斗はあの暗い屋根裏部屋で、犬みたいに生かされ、いつか本当に弄び殺される。
それだけは、絶対に。
若林星奈は喉の奥の息を無理やり絞り出し、泥水の中から立ち上がった。左脚には錐をねじ込まれるような痛みが走り、まともに歩けない。引きずるように、片足を庇いながら前へ進む。
どこへ行くのかなんて分からない。頭の中にあるのは、たったひとつだけ。
帰る。
あの、幼いころから育った若林家へ。父が何かを遺しているかもしれない。母がまだ、あそこで待っているかもしれない。
雨は一晩中、降り続いた。
空が白み始めるころ、若林星奈はようやく記憶の中のあの通りへ辿り着いた。
だが、顔を上げた瞬間――全身が凍りつく。
かつて笑い声に満ちていた三階建ての洋館は、今や完全に死んだ廃墟だった。
装飾の施された鉄門には、裁判所の封印が二本、ばつ印のように貼られている。
庭は背丈ほどの雑草に埋もれ、丹精していた薔薇の花壇は泥の山に成り果てていた。窓ガラスは半分以上が割れ、黒々とした穴をぽっかりと晒している。
外壁には、どす赤い塗料で殴り書きされていた。
『借金返せ』
『狂女は死ね』
『人殺しは償え』
「星奈……? あんたなのかい?」
背後から、震えるような小さな声。
若林星奈は、虚ろなまま振り返った。
隣家の小山婆さんが買い物籠を提げて立っていた。彼女の今の姿を見た瞬間、その目はみるみる赤く染まる。
「小山さん……」
唇を開くだけで痛い。声は乾き切っていた。
小山婆さんは慌てて近寄ってきた。全身傷だらけで、服はぼろぼろ、泥にまみれた若林星奈を見て、とうとう目元を潤ませる。
「星奈、あんた……なんでこんな……。西野家じゃ、あんたは統合失調症で海外療養に行ったって……」
「私は狂ってない」
若林星奈は鉄門の封印を睨みつけたまま、低く言い切る。
「小山さん、お父さんは? お母さんは? ここで何があったの」
小山婆さんは涙を拭い、声をひそめた。言葉の端々に、怯えが滲んでいる。
「この三年でね、外はもう地獄みたいになっちまったんだよ。西野直人、あの恩知らず……あんたが閉じ込められて一か月もしないうちに、山川家と手を組んで罠を張ったんだ。お父さんを脱税だの粉飾だので告発してね」
「三日間取り調べを受けて、出てきたその日に心筋梗塞で……そのまま亡くなったんだよ」
若林星奈の呼吸が、ぴたりと止まる。
見えない大きな手で、心臓を一気に握り潰されたようだった。
「……お母さんは」
歯を食いしばりながら、どうにかそれだけ問う。
「お母さんは、この家を銀行に入れて、お父さんの後始末をしたんだよ」
小山婆さんはしゃくり上げながら続けた。
「西野直人が、あんたは暴力を振るう殺人鬼だって言いふらしてね。取り立てが毎日、門に死んだ鼠を吊るしていったんだ。お母さん、もう耐えられなくなって……最後の金で工事の人らに支払いだけ済ませて、夜逃げみたいに海外へ逃げたんだよ」
小山婆さんは震える手で懐を探り、皺だらけの紙幣の束を取り出した。そしてそれを、無理やり若林星奈の手に押し込む。
「星奈、これ持って、早く逃げな。今じゃ世間じゅう、あんたのニュースばっかりだよ。頭のおかしい女だの、何億もの借金を背負ってるだの……。顔なんて出しちゃ駄目だ。債権者も、西野直人の手の者も、みんなあんたを探してる。お願いだから、早く。遠くへ行きな」
言い終えると、小山婆さんはそれ以上そこにいられなかった。涙を拭いながら慌ただしく家へ戻り、玄関の扉を固く閉ざす。
若林星奈は、廃墟と化した実家の前にひとり立ち尽くした。
もう雨は止んでいた。なのに、灰色の朝の光には欠片ほどの温度もない。
父は死んだ。母は去った。
自分は莫大な借金を背負わされ、世間からは狂った悪女として追われている。
そして、たったひとりの息子は、西野直人と山川心菜に屋根裏部屋へ閉じ込められ、犬のように腐った飯を食わされ、全身傷だらけにされている。
何ひとつ、残っていない。
家は潰れた。
家族は壊された。
子とも引き離され。
十億の借金だけが残った。
三年の生き地獄の果てに待っていたのは、西野直人と山川心菜が、自分の家族の死骸を踏み台にして上へ上がっていく現実だけ。
若林星奈はゆっくりとうつむき、水たまりに映る自分の顔を見下ろした。
髪はべったりと頬に貼りつき、頬骨は異様に浮き出ている。目は深く落ちくぼみ、まるで墓穴から這い出してきた亡霊だった。
ふいに、若林星奈は笑った。
口元がぐい、と吊り上がる。吊り上がって、吊り上がって――声のない惨笑が、がらんとした街路にびりびりと裂け広がった。ぞっとするほどの狂気だけが、そこにある。
地面に散らばった金を拾おうとはしない。
代わりに彼女は腰をかがめ、廃墟の泥の中から、尖ったガラス片を一本、ゆっくりと引き抜いた。
それを掌の中でぎゅっと握り潰す。
鋭い縁がたちまち皮膚を裂き、血がぽた、ぽたと滴り落ちた。それでも眉ひとつ動かない。
西野直人。
これで私を踏み潰したつもり?
山川心菜。
これで勝ったつもり?
だったら――鬼にしてくれた礼を、きっちり返してやる。
地獄の底から這い上がって、おまえたちみたいに高い場所に立っている人間を、一人残らず引きずり落としてやる。
奪われたものは全部、百倍でも千倍でもして返させる。
若林星奈は笑みを消した。
その目は、氷みたいに冷たく、硬い。
まずは生き延びること。
こんな場所で、山川心菜の犬どもに見つかるわけにはいかなかった。
