第4章 轢き殺せ!
若林星奈は砕けたガラス片を、死ぬほど強く握り締めていた。
鋭い縁が掌を裂き、血が手首を伝って落ちる。ぬかるんだアスファルトに、ぽたり、ぽたり。
――痛みは、ない。
三年にわたる電撃と薬漬けで、痛覚なんてとっくに壊れてしまった。
左脚は勝手にがくがく震え、胃の奥が焼けるように熱い。視界が、何度も暗転する。
小山婆さんに押しつけられた札束は、いつの間にか水たまりへ落ち、泥水に浸かってぐしゃぐしゃに腐っていた。
もう、歩けない。
臓器の一つ一つが、限界だと叫んでいる。
遠くで――鈍いエンジン音が、朝の街を裂いた。
若林星奈は顔を上げる。
ナンバーのない大型ダンプが、狂牛みたいに加速して突っ込んでくる。ヘッドライトが目を焼き、まともに見開いていられない。
高田さんの声が耳の奥で蘇った。
『山川さんが人を雇った。事故に見せかけて、あんたを轢き殺すって――!』
速すぎる。濡れた路面が、ばしゃあっ、と人の背丈ほどの水柱を上げた。
若林星奈は、その場から動かなかった。
動けなかった。
この残骸みたいな身体には、もう脚を上げる力さえ残っていない。
迫ってくる車を見つめながら、頭の中だけが妙に静かになった。
――死んでも、いい。
父は死んだ。母は去った。息子は洗脳され、賊を母と呼び、自分を人喰いの化け物だと怯えた。
何もない。
西野直人にも勝てない。山川心菜にも勝てない。
疲れた。ほんとうに、もう限界だ。
若林星奈はゆっくり瞼を閉じた。涙が泥水と混じって唇を濡らし、苦く、渋い。
――ダンプが十メートルに迫った、その瞬間。
「バンッ——!」
耳を裂くような轟音が街で炸裂した。
若林星奈は、ばっと目を見開く。
横の路地から、漆黒のアーマードSUVが飛び出し、ダンプの側後方へ容赦なく激突した。
大型ダンプは制御を失い、きぃぃぃっとタイヤが悲鳴を上げる。街灯をへし折り、そのまま廃墟の影へ横転した。
間髪入れず、同型の黒いSUVが三台、唸りを上げて周囲へ滑り込む。
若林星奈を、逃げ場のない円の中心へ閉じ込めるように。
ドアが同時に開いた。
黒いスーツのボディーガードが十数人、雨の中へ躍り出て、素早く現場を制圧する。
中央の車両。その後席ドアが押し開けられた。
オーダーメイドの黒い革靴が、泥水を踏む。
男が降りてきた。純黒のトレンチコート。背が高く、肩幅が広い。脚が長い。
土砂降りだ。傘を差し出そうとする護衛を、男は手で制した。
そして大股で――若林星奈へ向かってくる。
見知らぬ男の接近に、若林星奈の身体が反射で震えた。
病院での三年。スーツの男が来る=新しい折檻と電撃。
「来ないで!」
血のついたガラス片を両手で握り、先端を男へ向ける。
「近寄るな! 触るな!」
しゃがれた叫び。
男は足を止めた。
泥水に伏せる彼女を見た。犬みたいに汚れた身体を見た。傷だらけの顔を見た。骨と皮ばかりの肩を見た。自分の掌を切ってまで握り締めたガラス片を見た。
男の目が、一瞬で赤くなる。
呼吸まで、震えた。
「星奈」
名を呼ばれ、若林星奈の全身が硬直した。
男はガラス片を気にも留めず近づき、泥の上に片膝をつく。
若林星奈は恐怖で反射的に腕を振った。ガラスの先が男の腕を裂き、黒い布地がびりっと破れる。血が一気に噴き出した。
それでも男は眉一つ動かさない。
血のついたガラスごと、若林星奈を強く抱き締めた。
力は鉄のように強いのに、傷を避けるように慎重で、――優しい。
「放せ! 放して!」
若林星奈は暴れた。拳で肩を殴り、歯で服を噛みつく。
「大丈夫だ」
男は彼女の首筋へ顔を埋め、明らかな嗚咽を含んだ声で言った。
「星奈、俺が来た。……遅くなって、すまない」
抵抗が、少しずつ弱まる。
若林星奈は呆然と男の横顔を見た。
「……あなた、誰」
男はわずかに腕を緩め、泥に汚れた彼女の頬を両手で包む。
「神田健斗だ。七年前、中央病院。お前がサインして、骨髄をくれた……死にかけの貧乏人がいた」
若林星奈の瞳孔が、きゅっと開いた。
七年前。
若林家のお嬢様だった頃。家に隠れて、一度だけ骨髄提供をした。相手の顔も名前も知らない。同い年くらいの男の子だとだけ聞かされていた。
「その人間が……俺だ」
神田健斗は彼女の血の手を握り、ガラス片を水たまりへ投げ捨てた。
「お前がいなければ、七年前、俺はあの地下室で腐って死んでた」
神田健斗は黒いトレンチコートを脱ぎ、若林星奈の痩せた身体へきつく巻きつける。
「俺は七年、必死で這い上がった。お前の隣に立てる男になるために。堂々と、守れる男になるために」
雨音に負けない低い声で、言い切る。
「俺が今日持ってるもの――神田グループも、金も、権力も、この命も。全部、お前のものだ」
若林星奈は、ただ呆然と見上げていた。
三年。誰もが彼女を狂人と罵り、悪女と笑った。
西野直人は踏みにじった。山川心菜は命を狙った。
世界が捨てた。
なのに、この高みにいる男が、泥の中に膝をついて言う。
全部、お前のものだ、と。
「……どうして、こんな目に」
神田健斗の指が、頬の傷へそっと触れる。
その眼差しが、凍てつくほど恐ろしい殺意へ変わり、周囲のボディーガードが思わず視線を伏せた。
だが若林星奈へ向ける目だけは、瞬時にやわらかくなる。
「星奈、もう怖がらなくていい」
神田健斗は彼女を抱き上げ、広い胸に支えた。
「今日から、お前の命は俺が守る。お前の空は俺が支える」
濡れた髪が額に張りつく彼女を、ゆっくり抱え直す。
「指一本でも触れたら……俺がそいつの命を取る」
精神科病院で電撃を浴び、失禁するほど痛めつけられても、泣かなかった。
西野直人に首を絞められ、外へ投げ捨てられても、泣かなかった。
父の死を聞いても、泣けなかった。
倒れたら終わりだと、自分に言い聞かせてきた。
けれど今、見知らぬのにどこか懐かしい腕の中で、無条件の庇護を叩きつけられて。
若林星奈の防壁は、音もなく崩れた。
神田健斗のシャツを掴み、喉の奥で押し殺した嗚咽が漏れる。
次の瞬間――胸を裂くような号泣になって溢れ出した。
三年の屈辱。親を失った絶望。息子が犬みたいに繋がれていた痛み。
全部、吐き出すみたいに泣いた。
身体が痙攣し、息ができないほどに。
「……私は、あいつらの命なんていらない」
