第9章 火に油を注ぐ
「上で何をするつもりだ」西野直人の声は、刃みたいに荒かった。
「……会いに……私の子に」若林星奈は、喉の奥から文字を搾り出す。
「よくも会う顔があるな。あの雑種、今日の午後から高熱だ」
若林星奈の心臓が、ぎゅっと握り潰された。
熱……? 優斗が?
「いつからだと思う?」西野直人が鼻で嗤う。「お前が押し込んできた直後だ。どれだけ怯えさせた? いまだに震えて、誰が来ても隠れるんだぞ」
階段口に、いつの間にか山川心菜が立っていた。瞳を潤ませ、今にも泣き出しそうな顔で二人を見る。
「星奈、責めたいわけじゃないの……でも今夜、あなたが屋根裏部屋に押しかけて、あの子は大泣きして……もともと身体が弱いのに、そのせいで熱が出ちゃったの。医者は呼んだわ。でもずっと泣いて、誰があやしても駄目で……」
若林星奈は全身を震わせ、充血した目で西野直人を刺すように睨んだ。脚が崩れそうでも、一歩も退かない。
「閉じ込めて踏みにじって、病気にしておいて……第一声が『私のせい』?」
「西野直人、あんたは人間じゃない!」
傍の使用人たちは、全員が顔を伏せた。息すら殺している。誰も止めない。誰も見ない。今の若林星奈は、噛みついてでも戦う目をしていた。
山川心菜が半歩引く。だが次の瞬間には涙をにじませ、西野直人の袖を掴み、柔らかい声を作った。
「直人兄、怒らないで……星奈さんは子どものことが心配で焦ってるだけ。わざと逆らったんじゃ……」
その言葉が引き金だった。
「じゃあ誰だ!」西野直人の怒りが爆ぜる。「昨夜、屋根裏部屋に行ったのはこいつだけだろ!」
「邪魔な雑種を消して、また俺に縋りつく気だったんじゃないのか!」
「パンッ!」
乾いた音がリビングに響いた。
若林星奈の平手が、西野直人の言葉を叩き折る。手のひらがじん、と痺れ、指先が止まらず震えた。
「目も心も腐ってるから叩いた」
「西野直人、あんたに父親を名乗る資格なんてない!」
西野直人は顔を逸らし、頬を押さえた。
――殴った?
この、ずっと見下して、好きに握り潰せると思っていた女が。
山川心菜が甲高く叫び、西野直人に縋りつく。
「星奈さん! どうして直人兄を殴るの! 直人兄だって子どもが心配なのに! あなた、理不尽よ!」
若林星奈の視線は西野直人に縫い止められたまま、外れない。
「私が害したって言い張るなら、いい」
「私が看る。あの子に何かあったら――ここで死んでやる」
息を吐く間も与えず、言葉を続ける。
「でも止めるなら、あんたは後ろ暗いからよ」
「私が突き止めるのが怖いの。誰が本当に、あんたの実の子を殺そうとしてるか」
拒めない。逃げられない。
全部を一本の縄にして首へかける、命懸けの言葉。
西野直人は、その剥き出しの凄みに呑まれた。赤い目の奥に、いつもの媚びも、卑屈もない。あるのは死の覚悟と、骨まで染みた憎しみだけ。喉が塞がって、反論が出てこない。
山川心菜が必死に腕を引く。
「直人兄、行かせちゃだめ! また子どもに手を出したら、間に合わない! そんな危険――」
「黙れ!」西野直人は苛立ちに彼女の手を振り払った。強すぎる力で、山川心菜がよろける。
西野直人は複雑な目で若林星奈を見た。
胸の奥で、弱いのにやけにしつこい芽が伸びる。
――もしかして、子どものことは本当に彼女じゃない。
歯を噛みしめる。
「……いい。今回だけだ」
「少しでも何かあったら、お前を生かしておかない。情けはかけん」
若林星奈の張り詰めた神経が、ふっと緩んだ。身体が揺れ、倒れかける。だが歯を食いしばって耐えた。
一度も二人を振り返らない。
踵を返し、そのまま屋根裏部屋へ駆けた。足取りはふらつき、胸の中は一つの念で焼けている。
――早く。もっと早く。間に合って。
扉を乱暴に押し開ける。
暗がりのソファに、縮こまった小さな身体。
骨ばかりの痩せた子が、薄い布団に包まれていた。頬は真っ赤で、唇は乾いて裂け、血がにじむ。呼吸は弱く、見落としそうなほど細い。ときおり、かすかな呻きが漏れた。
若林星奈は駆け寄り、震える手で額に触れる。
焼けるような熱が、胸をえぐった。
涙が一気に溢れ、視界が滲む。ぽた、ぽた、と子どもの手の甲へ落ち、子どもが小さく身を縮めた。
「優斗……ママが来た。ここにいる……離れない……」
声が震えて、言葉が繋がらない。
子どもがゆっくり目を開ける。怯えと不安を詰めた瞳。小さな口はきつく結ばれ、泣くことさえ怖いみたいに、ただ呆然と彼女を見つめた。
「怖がらないで……優斗、ママだよ。ごめん……ごめんね」
「遅くなった。ほんとに遅くなった……ママが駄目で、こんな思いをさせて……」
額を寄せて、何度も囁く。涙が止まらず、子どもの髪を濡らした。
水を運び、タオルで顔と手を拭く。壊れものに触れるみたいに、息を殺して優しく。
水を飲ませる。綿棒で唇を湿らせる。
たった一口でも飲めば、胸がいっぱいになった。
覚えていない子守歌を、かすれた声で口ずさむ。
妊娠していた頃、いつか歌ってやれる日を夢見ていた旋律。途切れ途切れで、音も外れている。それでも、三年分の疼くような愛と悔いが詰まっていた。
最初は全身を硬くしていた子どもの警戒が、掌の温度と、優しく詰まる歌声で、少しずつ溶けていく。
泣き崩れる若林星奈を見つめる瞳に、微かな安堵が宿った。
小さな手が、無意識に彼女の服の裾を掴む。
胸を撃ち抜かれたように、若林星奈の涙がさらに溢れた。
「ずっと会いたかった……ずっと探してた……」
「もう離れない。二度と委屈させない。命を捨てても守る……」
熱に浮かされた子どもの唇が、かすかに動く。
ほとんど聞こえないほど弱いのに、確かに彼女の耳へ刺さった。
「……ま……ま……」
若林星奈は凍りついた。
信じられず、顔を近づける。聞き間違いじゃない。
その瞬間、涙が切れた糸みたいに落ちた。若林星奈は子どもを抱き締め、身体が裂けるほど泣いた。肩が震え続ける。
「うん……! ママ、いる! 聞こえた……!」
「優斗、ママはここにいる。ここにいるよ!」
背を叩き、何度も繰り返す。
やがて子どもの眉が少し緩み、深く眠った。小さな手は、彼女の裾を強く掴んだまま。離したらまた消えるとでも言うみたいに。
若林星奈は抱き締め、弱いが確かな鼓動を感じる。
ありとあらゆる屈辱も、痛みも、悔しさも――この一声の前では、全部が報われた。
……
その頃。書斎で西野直人は苛立ちにネクタイを乱暴に引き、机へ放り投げた。心がざわついて止まらない。
若林星奈の目。
あの平手の重さ。
真犯人を炙り出すと言い切った決意。
脳裏から、どうしても消えない。
三年前のことを考えるたび、山川心菜を思い浮かべるたび、理由のない不安が胸の底で膨らむ。
彼はずっと信じてきた。彼女は優しくて善良で、嘘などつかないと。
だが今夜の若林星奈は、演技ではない。命を投げ出す目だった。
それに、あの子――避けて嫌ってきたはずなのに、思い出すたび、眉や目元が自分に似ている気がしてならない。
その考えが一度芽を出すと、もう押さえ込めなかった。
西野直人は内線のボタンを強く押した。
「小山、入れ」
