第1章 そんなに俺と同じベッドで寝たくない?
結婚して何年も経つある日、初恋相手から「会いたい」というメッセージが届いた。白川凰姫は――情けないほど、ためらってしまう。
【凰姫、5年ぶりだね。元気? 一度、会いたい……】
送り主は初恋の彼氏、相良沢弥。
5年もあれば、人も状況も変わる。たとえば彼女はとっくに結婚していて、いまは妊活中だ。
白川凰姫は【もう結婚してる】と打ち込んだ。けれど送信できない。長い逡巡の末、その一文を消して、最後に返したのはたった一文字だった。
【いいよ】
――そろそろ、この実らなかった初恋に終止符を打つべきだ。
あのとき相良沢弥は、芳丸家から渡された2億の小切手を手に、二人の誓いを捨てるように振り返りもせず海外へ行った。
彼女は家の都合の縁談を受け入れるしかなく、愛されもしない男に嫁いだ。
そんなことを考えていると、腰がふいにきゅっと締まる。温かな胸板が背中に密着した。
雪松の香りが、一瞬で彼女を包み込む。
白川凰姫はびくっとして、すぐに画面を消した。スマホを掌の中でぎゅっと握りしめる。
「出張じゃなかったの? いつ戻ったの……?」
いつからいたの。何か、見られた……?
芳丸巡哉は答えない。熱い唇が首筋に落ち、ぞくりと震えが走った。
掠れた、色気のある声が耳元をくすぐる。
「何見てた。そんなにぼーっとして」
白川凰姫の心臓が一拍抜ける。
「な、何でもない……仕事のメールよ」
振り返らない。おかしさを見抜かれたくなかった。
この男が、夫。2億で彼女と相良沢弥の年月を買い切った男だ。
芳丸巡哉は腰を抱えたまま彼女を向き直らせ、唇を乱暴に塞いだ。
逃げ場のない熱に身体がほどけていく。白川凰姫は両手で彼の厚い胸を押し返そうとしたが、キスはさらに荒くなる。
いつもより、ずっと強引だった。寝間着をたくし上げ、彼女が求めているかどうかなど確かめもせず、容赦なく突き入ってくる。
結びつく震えに、二人の身体が甘く痺れた。普段の巡哉なら、凰姫が慣れるまで待ってから動くのに。今夜は違う。粗く、何度も、奥まで。
白川凰姫は初めて、こんなにも激しい行為を知った。巡哉が我を失うことは確かにあったが、たいていは彼女の感覚を優先してくれたはずなのに。
耐えきれず声が漏れる。
「……や、やめ……」
巡哉の瞳に暗い光が走る。止まるどころか、さらに速くなる。
身を屈めて彼女の脚を持ち上げ、押し込むように、もっと深く。
昂りの底で、男が耳元に低く囁いた。
「子どもを産んでくれ」
白川凰姫は、呆けたように固まった。胸の奥がきゅっと締め付けられて痛い。
――彼が自分に熱を注ぐのも、結局は「子ども」という目的のため。
5年前、白川家の事業が失敗し、養父母は資金欲しさに彼女を五十過ぎの禿げ頭の男へ嫁がせようとした。そこに現れて救ったのが芳丸巡哉だった。
群衆の中で、矜持のある空気を纏いながら淡々と言った。
「俺が娶る」
入籍のとき、彼女は勇気を振り絞って訊いた。
「どうして……私なんですか」
巡哉は煙草に火を点け、煙の向こうで端正な輪郭を曖昧にしたまま言う。
「祖母が歳でな。孫が見たい。知り合って長いし、身元も分かってる。芳丸の奥さんとして都合がいい」
彼が欲しかったのは子どもで、彼女は――高い金で買われた、都合のいい器。
狂ったような熱の中、白川凰姫はすぐに頂点に達した。痺れる快感が脳を白く塗りつぶし、脚は力を失って大きな掌に押さえられる。
まだ息も整わないうちに、男は彼女を抱き寄せた。いつもは底の見えない瞳が濃い欲で滲んでいる。
「もう一回」
そう言うと、次の波へと容赦なく引きずり込んだ。
今夜の巡哉は明らかにおかしい。狂気じみた狠さで、彼女を気絶させたいみたいだった。
何度重ねたのかも分からない。終わったころには白川凰姫は指一本すら上げられなかった。
巡哉はベッドヘッドにもたれ、煙草に火を点ける。煙を吐きながらスマホを開き、青みのある深い瞳を伏せて画面を見ていた。
白川凰姫が横目で見ると、一瞬だけ見えた待ち受けは白いワンピースの少女だった。
――これが、彼が何年も想って手に入らなかった女?
結婚前から噂は聞いていた。巡哉には長く想い続けた相手がいて、ずっと身持ちが堅い。けれどその相手には長年付き合っている恋人がいる、と。
上流の圈子では、芳丸巡哉が一途な男だという話は格好の酒の肴だった。
きっと忘れられないのだろう。新婚初夜、巡哉は戻らなかった。白川凰姫は一人寝室で、夜が明けるまで待った。
翌日には出張。二人はそれぞれの生活で、同じ家に住んでいなければ結婚が幻だったと思うほどだった。
ある夜、酔った巡哉が彼女を想い人と勘違いし、関係を持った。それ以降、排卵期の数日だけ、任務をこなすみたいに彼はきっちり帰宅して彼女を抱いた。
惨めだ、と感じることがある。愛した男には捨てられ、今の夫は別の女を愛している。
巡哉がまだスマホを見ている横で、白川凰姫は震える脚を堪えながら起き上がり、客間へ行こうとした。
ところが二歩目で膝がふっと抜け、前へ倒れそうになる。
痛みは来なかった。巡哉の逞しい腕が即座に腰を掬い、彼女を横抱きにする。
白川凰姫は柔らかな大きなベッドへ放られた。
高い影が覆いかぶさり、逃げ場なく押さえ込まれる。
「白川凰姫」
冷たく沈んだ声。
「そんなに俺と同じベッドで寝るのが嫌か」
暗闇の中、白川凰姫の右耳がじんじん鳴る。静寂が濃い。
右耳が聞こえないことを、誰も知らない。子どもの頃、酔った養父に叩かれてから、右では音が曖昧になった。
彼の怒りを押し殺した問いを聞き取れず、ただ冷たい気配から「不機嫌」だけを感じ取る。
怒ってる? まだ続けたいのか、それとも私が台無しにしたのか。
不安と焦りが、一気に喉まで押し寄せた。
白川凰姫は手を伸ばし、彼の腕にそっと触れる。媚びを混ぜた小さな声。
「……怒ってるの?」
男の身体が明らかに硬直した。
効いた、と勘違いした凰姫は、さらに柔らかく言う。
「ごめんなさい……怒らないで……」
彼女が「歩み寄り」だと思ったそれは、巡哉にとっては油を注ぐ行為だった。
彼が欲しいのは、謝罪でも従順でもない。
巡哉の指がきゅっと締まる。身を屈め、熱い息が彼女の頬にかかるのに、言葉は落ちてこない。
長い沈黙の末、巡哉は彼女の隣に横になった。背を向けたまま、硬く冷たい背中だけを見せる。
「寝ろ」
低く、氷のような声。そこに温度はなかった。
白川凰姫の心が底へ沈む。やっぱり怒っている。
彼から立ち上る冷えに押されるように、彼女はベッドの端へ丸まり、遠い距離を空けた。
彼女が重い眠りへ落ちたあと、スマホが光って住所が届いた。
翌朝、その住所を見て白川凰姫はぼんやりしたまま階段を下りた。巡哉はすでに食卓に座っている。
きっちり仕立てられたスーツ。経済紙に目を落とし、金縁眼鏡の奥の瞳は深く、感情が読めない。
昨夜の失控と怒りなど、夢だったかのように。
食後、巡哉は電話を一本受けて出て行った。白川凰姫は行き先も帰宅時間も訊かない。
私生活に干渉しない――それも政略結婚の取り決めで、彼女はこの数年、芳丸の奥さんとしてきちんと守ってきた。
けれど今回は、契約を守らないと決めた……。
