第2章 彼と離婚しろ

白川凰姫は待ち合わせのカフェに10分早く着いた。窓際の席を選び、行き交う人の波をぼんやり眺める。

「凰姫」

頭上から落ちてきたのは、懐かしいのに、どこか遠い声。

顔を上げると、5年ぶりの相良沢弥が立っていた。

5年という時間は、彼の輪郭をはっきりと塗り替えている。かつての青臭い少年はスーツを着こなし、身のこなしの端々に品のいい気配を纏っていた。けれど、あの目だけは記憶のままだった。

相良沢弥は内ポケットから小さな箱を取り出し、そっと彼女の前へ滑らせる。

蓋を開けると、ダイヤの指輪。中心の一粒が眩く、周囲には淡いピンクの石が細かなハートの意匠で散りばめられていた。

白川凰姫は、息を止めた。

このデザイン――見間違えるはずがない。

大学3年のときに自分が描いた、あの図面。

相良沢弥は「コンテストに出す」と言って持ち去り、のちに芳丸巡哉へ売って、2億と推薦状に換えたのだと――後から知った。

「どうして……」

「人に頼んで買い戻した」

相良沢弥の声は低く、静かだった。

「凰姫。もう俺にはお前を守る力がある。あいつと離婚しろ。俺と一緒になろう。幸せにする」

白川凰姫はゆっくり箱を閉じ、彼の前へ押し返した。

そしてバッグから、別の小箱を取り出す。中身を机へ落とした――カルティエのブレスレット、小さな模型、数枚の写真。それから、大学時代にやり取りした手紙の束。

過去にしか存在しない、時代遅れのロマンチック。

「全部、返す」

相良沢弥はそれらを見つめ、顔色を少しずつ沈ませた。

「凰姫……あのとき俺が出て行ったこと、まだ恨んでるのか」

「恨んでない」

白川凰姫は首を振る。

「ただ、私はもう芳丸巡哉と結婚してる」

「愛してるのか?」

相良沢弥が唐突に問う。

「白川凰姫、言え。芳丸巡哉を愛してるのか?」

白川凰姫は答えない。指先を見つめたまま、小さく言った。

「……変わったね」

「愛のない結婚なんて続ける意味がない!」

相良沢弥は畳みかける。

「お前、最近ジュエリーブランドの登録してるだろ。手続きが詰まってるのに、芳丸巡哉に頼めない。俺なら解決できる」

その言葉に、白川凰姫は顔を上げた。

昔、養父に殴られるたび、相良沢弥はこっそり窓から彼女の部屋へ入り、薬を塗って朝までそばにいてくれた。

「泣くな。俺がいる」

そう言ってくれたのに。

今はどうだ。告白ですら、取引の提案みたいだ。

ブランド登録の件を芳丸巡哉に頼まなかったのは、彼がもう十分すぎるほど助けてくれているからだった。

白川凰姫は息を吐き、立ち上がる。

「相良沢弥。返すものは返した。もう会わない」

相良沢弥が勢いよく立ち、彼女の手を掴もうとする。白川凰姫はすっと身を引いた。

「白川凰姫!」

その声は、カフェの重いガラス扉の向こうへ押し込められた。

白川凰姫は振り返らず、足早に店を出た。何かから逃げるみたいに。

別荘へ戻るころには、外はすっかり暗い。

扉を開けた瞬間、濃い料理の香りがふわりと鼻を満たし、室内の暖かさが外の冷えを一息で追い払う。

白川凰姫は玄関で固まった。芳丸巡哉は滅多に帰宅しない。まして料理など――どうして今日?

「帰ったか」

低い声がキッチンからする。

振り向くと、芳丸巡哉が出てきた。灰色のエプロンを身につけている。上質な仕立てのスラックスと不釣り合いで、絵面は妙におかしいのに、なぜか笑ってしまいそうになる。

「……料理、したの?」

芳丸巡哉はエプロンを外し、椅子の背へ無造作に掛けた。

「手を洗って、食え」

食卓に並ぶのは、彼女の好きなものばかりだった。

白川凰姫はひと皿ずつ口に運ぶ。忌口も好みも覚えていて、彼女が何気なく話した料理まで作っている。

「うまいか」

眼鏡の奥の表情は読めない。

「おいしい」白川凰姫は頷き、ふと思い出して言いかけた。

「それで、今日――」

芳丸巡哉が遮る。

「先に食え。今日は祝いだ」

「祝い?」白川凰姫は戸惑う。「何の?」

「お前の個人ジュエリーブランド。登録が通った」

芳丸巡哉は天気の話でもするように淡々と言った。

白川凰姫の箸が皿に落ちる。

勢いよく顔を上げ、彼を見据えた。

「今、何て……? どうして……そんなはず……。手続きが複雑だって言われて、迷惑かけたくなくて、あなたには――」

「大したことじゃない。電話一本だ」

芳丸巡哉はスープをよそい、彼女の前へ置く。湯気が白川凰姫の目をにじませた。

芳丸巡哉は、彼女を愛していない。結婚も子どものため。

それでも夫としての責務は果たしていた。記念日には贈り物。定期的に届く数百万、数千万の宝飾品。

この結婚は、感情がない以外、欠点が見当たらない。

――なのに私は、元彼に会いに行った。作品を取引の駒にした男に。

芳丸巡哉に知られたら、激怒して、気持ち悪いと思うだろう。

「今日はどこに行った」

芳丸巡哉が突然聞いた。

白川凰姫の心臓が跳ねる。俯いたまま、小さく嘘をついた。

「ずっとアトリエで……コンテストの準備。どこにも行ってない」

芳丸巡哉の手が一瞬止まった。それ以上は問わない。

だが、空気が冷えたのが分かった。

白川凰姫は知らない。芳丸巡哉はすでに坂東補佐から報告を受け、彼女が相良沢弥に会ったことも把握している。

芳丸巡哉の瞳が暗く沈む。声も淡く冷たい。

「ビデオ会議がある。先に休め」

会議は口実だ。まだ食事も終えていない。

白川凰姫は引きつった笑みを作る。「こんな時間に?」

「海外の会議だ。遅くなる。待つな」

そう言って芳丸巡哉は二階の書斎へ上がっていった。

白川凰姫はリビングで落ち着かない。

何も言われていないのに、彼が不機嫌だと分かる。

夜、身支度を終えた白川凰姫が書斎の前を通ると、中から芳丸巡哉の澄んだ声が聞こえた。電話のようで、それは長く続いていた。

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