第3章
白川凰姫は扉の前にしばらく立ち尽くし、結局ノックする勇気が出ないまま寝室へ戻った。
ベッドに横になっても眠れない。寝返りを打って、シーツを握って、息を整えても、胸のざわめきだけが消えなかった。
午前3時。書斎の扉が開く音がして、廊下に足音が落ちる。
心臓が跳ね、白川凰姫は身を固くした。けれど待っても待っても、芳丸巡哉は来ない。——客間へ行ったのだ、とようやく理解する。
胸の奥が、すうっと冷えた。
今夜も昨夜みたいに、と思っていた自分が、滑稽に思えてくる。
昼間、ふいに冷たくなった彼の態度がよみがえり、白川凰姫は上着を羽織って客間へ向かった。
客間の扉は閉まっていなかった。灯りもない。
闇の中、芳丸巡哉はベッドの縁に腰掛け、指先の煙草がちろちろと明滅している。
白川凰姫の姿を認めると、彼はわずかに眉を寄せた。
「まだ寝ないのか」
白川凰姫はベッド脇まで寄り、温かな掌をそっと握る。頬が熱くなるのを誤魔化すように、小さく囁いた。
「……主寝室で寝て。あなた……」
言い切らなくても通じる合図。大人同士なら、なおさら。
しかも彼女は赤いネグリジェ姿だった。身体の線を隠しきれず、艶だけが際立つ。
「そこ、もう痛くないのか」
芳丸巡哉の喉仏がひくりと上下し、目が暗く沈む。指腹が、彼女の手の甲をゆっくり撫でた。
「……排卵期なの」
白川凰姫は唇を噛んで言った。
彼が自分にしてくれることは多すぎる。返せるものなど何もない。——だからせめて、子どもを。家に、彼に、責任を果たせるものを。
ところが、芳丸巡哉の体温がふっと引いた。
彼は手を離し、眉間に苛立ちと薄い怒りを刻む。
「白川凰姫。自分を商品みたいに扱うな。名門の奥さんなら、言動はもっと品よくしろ」
初めて向けられた剥き出しの叱責。白川凰姫は拳を握りしめ、胸の奥がきりきり痛んだ。
自分は何をした? 何が「安売り」で、何が「不品行」なのか。
——自分から求めたのが、はしたないとでも言うの?
羞恥と苦しさが一気に押し寄せる。闇の中、目の縁が熱く濡れ、喉が詰まって声が出ない。
芳丸巡哉も言い過ぎたと悟ったのか、彼女を客間の外へ押し出し、怒りを抑えた声で言った。
「遅い。戻って寝ろ」
扉が目の前で閉まり、内側から鍵のかかる音がした。
白川凰姫は扉の前で立ち尽くした。
全身が氷水に沈められたみたいに冷たい。精一杯用意した赤いネグリジェが、ひどく滑稽に思えた。
そして最悪は、その翌日だった。
——ネットを燃やすニュース。
『衝撃スクープ! 名俳優・江口梓月が人前で金融界の新進気鋭・相良沢弥にプロポーズも公開拒否! 相良沢弥「初恋をずっと想っている」』
白川凰姫は指先を震わせながら記事を開いた。現場動画が自動で再生される。
五星ホテルのロビー。純白のウェディングドレスをまとった江口梓月が、真紅の薔薇の花束を抱えて片膝をついている。
精緻なメイクでも隠せない、卑屈さと懇願。
『沢弥……あなたが大学の初恋を忘れられないのは分かってる。でも彼女はもう結婚してる! 私を見て。私のどこが彼女に負けてるの? 私、何でもあげる。命だって——』
泣き声混じりの声が、スマホから流れ出す。
相良沢弥は背筋を伸ばしたまま、見下ろした。そこに感動は一片もない。あるのは、抑えきれない苛立ちだけ。
『悪い。俺の心にいるのは、一人だけだ』
彼は屈んだ。だが起こすためではない。無表情のまま、江口梓月の手から薔薇を引き抜いた。
そして立ち上がると、床に崩れた彼女を一度も見ず、最も近いカメラへ向き直る。まるでレンズの向こうの誰かを射抜くように。
『白川凰姫!』
彼は、メディアの前で彼女の名を叫んだ。
『見てるなら伝えたい。俺の気持ちは変わってない! 愛してる!』
白川凰姫の手が滑った。
スマホが「ぱんっ」と絨毯に落ちる。
動画の中の、情に溺れたような顔。今の彼女には、歪んで陌生なものにしか見えなかった。
画面下のコメント欄は秒単位で更新される。
「マジ? 金融界の新進気鋭が人妻に公開告白? しかも芳丸グループ社長夫人って……」
「白川凰姫って誰?」
「相良沢弥キモい。人の奥さんを巻き込むなよ。旦那の気持ち考えろ」
「初恋同士なら真愛かもだろ?」
「草。明日、芳丸グループの株、真っ青だな」
白川凰姫のスマホは狂ったように震えた。電話も通知も止まらない。
電源を落とした瞬間、頭の中が真っ白になる。
——終わった。
全員に知られた。芳丸巡哉も絶対に見る。だから昨日、あんなに意味不明に怒っていたのだろうか。
彼はどう思う? 信じてくれる?
もし、午後に相良沢弥に会っていたことまで知られたら——未練があると思われる。
ふらふらと階段を下りると、芳丸巡哉はいなかった。
食卓はからっぽで、水一杯すら残っていない。
着替えを済ませ、工房へ逃げようと玄関へ向かった瞬間、外から抑えきれないざわめきが押し寄せてきた。
白川凰姫は息を殺し、床まで届く窓のカーテンを少しだけ開ける。
一目で、血の気が引いた。
門の外が、人で真っ黒だった。
数十人の記者がカメラを構え、出口を塞いでいる。「当事者」が出てくるのを待っているのだ。
出られない。放っておけば帰ると思った。
だが夜になっても、まだ多くのメディアが張り付いていた。
焦りが喉まで迫ったとき、芳丸巡哉の補佐・坂東から電話が入る。
「奥さま。社長の指示でお迎えに上がりました。裏口から出てください。こちらでお待ちしています」
マスクをつけて裏口へ回ると、黒いロールスロイスが静かに停まっていた。
坂東補佐がドアを開け、白川凰姫は身を屈めて乗り込む。
車内は暗い。窓の外の灯りがまばらに差し込み、運転席の男の冷たい横顔の輪郭だけが浮かぶ。
芳丸巡哉がそこにいた。無駄な動きは一切ないのに、圧だけが強い。
ジャケットは手元に投げ置かれ、薄いグリーンのシャツだけ。ネクタイも少し緩められ、苛立ちが滲んでいた。
