第6章
冷たい椀の縁が唇に触れた瞬間、生臭い苦さに湿った獣臭さが絡みつき、頭のてっぺんまで突き抜けた。
白川凰姫は咄嗟に顔を背ける。瓷の椀から薬汁がこぼれ、温水鈴花の高価なセットアップスカートの裾に跳ねて、黒ずんだ染みをいくつも作った。
「きゃっ!」
温水鈴花は悲鳴を上げ、熱湯でも触れたみたいに手を離す。汚れた裾を見下ろした顔は、みるみる鉄青に変わった。
「……あんた……このクズ! よくも!」
手が上がる。平手打ちが降ってくる――はずだった。
白川凰姫は避けない。冷たく温水鈴花を見返した。そこに恐怖はない。あるのは、死んだ荒野みたいな静けさだけ。
結局、その一撃は落ちなかった。
温水鈴花の手は宙で固まり、白川凰姫の――自分よりずっと美しい顔と、波ひとつない瞳に射抜かれて、怒りが焦りと恐慌に変質していく。
叩いて、何になる。いま一番大事なのは、憂さ晴らしじゃない。
温水鈴花は力なく手を下ろし、二歩ほどよろけて、ソファにどさりと座り込んだ。まるで骨を抜かれたみたいに、声まで震える。
「凰姫……お願い。ママが頼むから……そんなわがまま言わないで」
泣き出しそうな顔を作り、情に訴える調子へ切り替える。
「城東の土地が、うちにとってどれだけ大事か分かってる? あの不動産プロジェクトは、あなたのお父さんのこれからの人生を懸けた心血で、弟の将来の土台なのよ。手続きが全部止まってるの。あとは芳丸巡哉が頷くだけ!」
白川凰姫は黙って聞いていた。胸の奥は、凍りつくほど冷たい。
――これが今日の本当の狙い。
家の体面だとか、自分の名声だとか、そんなものは全部飾り。連中が怖いのは、このスキャンダルで芳丸巡哉を怒らせて、白川家の商売が吹き飛ぶことだ。
「こんなニュースが出たら、芳丸巡哉が助けるわけないでしょう? あなた、お父さんの心血が水の泡になるの見たい? 弟が将来、路頭に迷うのを見たいの!?」
温水鈴花は昂っていき、ついに本当に涙を流し始める。
「私たち、あなたを何年も育てたのよ。いいもの食べさせて、いいもの着せて、ここまで立派に育てた。だからお願い、肝心なときだけは、家のために力を貸して……!」
ソファから立ち上がり、白川凰姫の手を掴んだ。痛いほどの力。
「相良沢弥に電話するのが嫌なら、それでもいい。じゃあ芳丸巡哉に電話して。相良沢弥をきっちり懲らしめてもらって、そのついでに城東の件も口を利いてもらうの。……それから、あなたは薬も飲むのよ。男の子を産んであげなきゃ、あなたがどれだけ『価値がある』か分からせられないでしょう?」
価値。
白川凰姫の頭の中が、ぶうん、と鳴った。残ったのは、その二文字だけ。何度も何度も反響する。
八歳でこの家に連れて来られてから、彼女はずっと「価値」で測られてきた。
大慈善家・白川昭修の娘として美名を得る価値。
成長して、豪華な縁談で後ろ盾と資源を引き寄せる価値。
いまは契約の夫に“使える”と証明し続けて、白川家の利益を引き出す価値。
白川凰姫は視線を落とす。温水鈴花が掴む指、その手に嵌まった大粒のダイヤが、照明の下で冷たく光っていた。
「ママ」
白川凰姫が、ゆっくり口を開く。平静すぎて、かえって不気味なくらいの声。
「あなたの目に、私は……いったい何に見えてるの?」
温水鈴花は一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐ苛立たしげに手を振った。
「いまそれ言ってる場合!? 早く電話しなさい!」
白川凰姫は温水鈴花の指を、一本ずつ、そっとほどいていく。
「分かった」
そして、温水鈴花の呆けた目をまっすぐ受け止め――ふっと笑った。
「いまから、私の『価値』を証明してくる」
