第7章 彼は離婚したがっている
温水鈴花は呆然と白川凰姫を見つめた。
その唇に浮かぶ笑みが、ぞっとするほど冷たい。胸の奥が理由もなく跳ね、彼女は書斎へ駆け込むと、涙声で白川昭修を呼び出した。
人手が足りないのが不安だったのだろう。主寝室から、凰姫の二つ下の弟――白川逸也まで引っ張り出してくる。
黄色く染めた髪の逸也は、出てくるなりソファにだらりと倒れ込んだ。ゲームを再開し、脚を組む。外放しのスマホからは、銃撃と叫びがごちゃまぜになった喧噪が流れ、足元の限定スニーカーがひょこひょこと揺れている。
温水鈴花と、書斎から出てきた白川昭修は、凰姫を品定めするように見た。――商品として、最後にどれだけ使えるかを測る目。
白川凰姫は視線すら返さない。ハンドバッグからスマホを取り出した。
「おっ、義兄さんに電話して許し乞い? 最初からそうしときゃよかったのに。母さん怒らせてからじゃ遅いだろ」
逸也がだらしなく言う。嘲りが隠しきれていない。
凰姫は相手にせず、発信画面に慣れきった番号を打ち込み、スピーカーを入れた。
温水鈴花は息を止め、スマホを食い入るように見つめる。まるで白川家の運命を裁く審判の槌だ。
隣の白川昭修も、いつもの慈善家面を引っ込めた。レンズの奥の目には、露骨な緊張が浮かぶ。
「……プルル、プルル……」
規則的な呼び出し音が、静まり返ったリビングに響く。逸也もゲームを止め、身を乗り出した。
『おかけになった電話は電源が入っていないため――』
通話が切れる。
「白川凰姫! ほら見なさいよ! 芳丸巡哉は、もうあなたの電話すら取らない!」
温水鈴花の顔が一気に赤くなる。スマホを奪い取り、もう一度かける。だが結果は同じだった。
さっきまで涙で塗り固めていた「慈母」の仮面が剥がれ落ちる。残ったのは、計画が崩れた苛立ちと、希望が潰えた怒りだけ。
「役立たず! 男の心ひとつ掴めないなんて! 白川家があんたを育ててきたのは、芳丸家で置き物をやらせるためじゃないでしょう!」
温水鈴花はその場を苛立たしげに歩き回る。
「巡哉が電話に出ないなら、城東の土地はどうなるの? お父さんの心血も、弟の将来も――全部! あんたがあの貧乏坊主と不清楚だから台無しになるのよ!」
白川凰姫はスマホを受け取り、手元へ戻した。画面が暗くなり、そこに映る自分の顔は、波ひとつない。
「へえ、電話も繋がんねえんだ」
逸也が足先をぶらぶらさせ、面白がるように凰姫を横目で見る。
「姉ちゃん、名門の奥さんの席、もう危なくね? 向こうも適当にあしらうのすら面倒で、電源切りってことだろ」
上から下まで値踏みして、鼻で笑う。スマホをぽいと放り、またソファに沈んだ。嘲りが声から溢れ出る。
「もう足掻くのやめりゃ? 姉ちゃんは芳丸巡哉に売るのも売りだし、相良沢弥にもう一回売るのも同じじゃん。昔の情で、ちょっと多めに払ってくれるかもな。親父のあのクソ案件も回せるだろ」
「黙れ」
白川昭修が低く制した。だが本気で怒ってはいない。いつもの威厳の演出にすぎない声音だった。
眉を寄せ、凰姫を見る。
「凰姫。弟は口が悪いが、言ってることは分かる。早く片をつけないといけない」
白川凰姫の胸は、氷水に沈められて、引き上げられ、冷たい風に晒されるみたいだった。
――これが家族。
ひとりは夫に媚びろと迫り、もうひとりは自分をまた売れと言う。
温水鈴花が、今にも凰姫に飛びかかりそうになった、そのとき。
鈴花自身のスマホが「ピロン」と短く鳴った。ニュースのプッシュ通知だ。
苛立ち紛れに目を走らせ、消そうとして――指が止まる。太字の見出しと、刺さるような姓が目に入った。
【芳丸グループ株価、寄り付きで異常変動。社長・芳丸巡哉の婚姻危機が原因との噂】
ポップアップが画面の半分を占める。
温水鈴花は震える指で、そのニュースを開いた。
見出しの下に並ぶ小さな文字が、さらに彼女を追い詰める。
「関係者によれば、社長夫人の負面報道に一部株主が強い不満を示しており、グループの信頼回復と株価安定のため、芳丸巡哉が協議離婚を選ぶ可能性も――」
離婚。
温水鈴花の視界が暗転した。スマホが「ぱんっ」と高価な手織りの絨毯に落ちる。
「母さん、どした?」
逸也が気のない声で訊く。
温水鈴花は答えない。床のスマホを睨みつけたまま、唇が震え、顔色が赤から白へ、最後には灰色になっていく。
「何のニュースだよ。大げさだな」
逸也が呆れたように拾い上げ――画面を見た瞬間、笑いが凍りついた。
「……どうした」
白川昭修が異変に気づき、覗き込む。文字を読んだ途端、顔から血の気が引く。
「り、離婚……?」
声が裏返った。
「そんな……あり得るか。冗談だろ……!」
もし凰姫が芳丸巡哉に離婚されたら、白川家は何になる。城東の件どころじゃない。下手をすれば、芳丸グループが報復に出る。
芳丸巡哉は、世界規模の商業帝国を動かす男だ。手腕は苛烈で強硬。これまでは冷やしていただけで、まだ綱渡りの余地があったのかもしれない。
だが今は違う。株価にまで波及した。家庭の揉め事ではない――核心利益に触れたのだ。
彼が白川凰姫と白川家に、何をする?
温水鈴花と白川昭修は目を合わせ、互いの瞳に滅頂の恐怖を見た。
怖いのはプロジェクトが潰れることではない。白川家そのものが粉々にされること。
逸也の顔色は、両親よりさらに悪い。考えているのはもっと現実的だ。
来月予約している限定のスポーツカーは? 取り巻きは? 上限のないカードは――明日には止まるんじゃないか。
「……ダメだろ!」
逸也が跳ね起き、凰姫の前へ飛び出した。さっきまでの軽蔑も嘲笑も消え失せ、必死の懇願だけが残る。
「姉ちゃん! 頼む、何とかしろよ! 離婚だけはダメだ! 説明してくれって! 相良の野郎が勝手に纏わりついてるだけで、姉ちゃんは被害者だって!」
温水鈴花も我に返り、這うように近づいて凰姫の脚に縋りついた。鼻水と涙でぐしゃぐしゃになって泣き喚く。
「凰姫……お願い。ちゃんと求めなさい。巡哉は夫婦の情があるはずよ。そんな薄情な人じゃない!」
白川昭修も家長の仮面を捨てた。
「凰姫……今まで白川家が悪かった。でも今は責任追及のときじゃない。大局を考えろ」
白川凰姫は伏せた目で、足元の温水鈴花を見た。次に、怯えた逸也を。最後に、顔面蒼白の白川昭修を。
数分前まで、彼らは「価値を証明しろ」と迫り、犬のように扱っていた。
それが今は、確証もないニュースひとつで、救世主みたいに縋ってくる。
白川凰姫はゆっくりと、自分の手を引き戻した。
そして顔を上げ、哀願と恐怖に満ちた三対の目を受け止め――ふっと笑った。
