第1章
午前2時。
新藤鈴奈は便器にしがみつき、胃の中のものを吐き尽くすほど吐いた。
それでも胃はなお、きりきりと絞られるように痛む。
必死に身体を支えながらリビングへ胃薬を探しに向かったそのとき、娘の部屋の前まで来た新藤鈴奈の耳に、ふいに話し声が飛び込んできた。
「真由おばちゃん、食べたよ。ぜんぶ食べた!」
幼い女の子の声は弾むように明るい。
「クリームに期限切れの牛乳と下剤を混ぜたの。あたしが自分で作ったって言ったら、ほんとにぜんぜん疑わなかった!」
新藤鈴奈の足が、ぴたりと止まる。
ドアの隙間から覗くと、娘が上機嫌でタブレットを掲げ、ビデオ通話をしていた。
「だってあの日、遊園地行かせてくれなかったじゃん。ピアノの練習しろってうるさかったし」
「ていうか、あの人ほんとバカだよね。もう何回もイタズラしてるのにさ。前のデザイン画とかスカートも、ぜーんぶわざとなのに、全然気づいてないんだよ?」
画面の向こうから、女のやわらかな声が流れてくる。
「日織、えらいわ。でも、そういうことはパパに知られちゃだめよ」
「わかってるって。これはあたしたちだけの秘密!」
新藤鈴奈は壁にもたれた。
胃の奥が、さっきよりも激しく波打つ。
今日の昼間、娘は小さなケーキを持ち帰ってきた。生活の授業で自分で作ったのだと、誇らしげに言っていた。
そのときの新藤鈴奈は、胸がいっぱいになって泣きそうになった。
津田真由が戻ってきてからというもの、娘はもう長いこと、まともに口をきいてくれなかったからだ。
それなのに――
まさか、これが初めてではなかったなんて。
先月、日織は彼女のデザイン画を隠した。午前中いっぱい探し回らされ、結局会議に遅れて社長にひどく叱責された。
日織は「ふざけただけ」と言い、新藤鈴奈は信じた。
半月前には、年会用に用意していたスカートに絵の具をぶちまけられた。
「手が滑った」と娘は言い、それも信じた。
自分の娘を疑ったことなど、一度もなかった。
けれど今になって、ようやくわかった。
あの「うっかり」の裏には、すべて津田真由の囁きがあったのだと。
そして命がけで産んだ娘は、その片棒を担いでいた。
新藤鈴奈は、自分がどうやって寝室まで戻ったのか覚えていなかった。
ベッドに横たわると、胸の奥に水を含んだ綿の塊でも沈んでいるようで、重く、息苦しい。
津田真由は、稲垣征也の初恋の相手だった。
7年前、稲垣征也は交通事故に遭い、脊椎を損傷して下半身不随になった。
そのとき津田真由は、ためらいもなく海外へ行ってしまった。
稲垣征也が人生でもっとも苦しんでいたあの一年、仕事を辞め、寸時も離れず彼に寄り添っていたのは新藤鈴奈だった。
なぜなら彼は、彼女が幼いころからずっと想い続けていた人だったから。
彼のためにマッサージを学び、毎日リハビリを手伝った。
資料を読み漁り、回復プランを研究し、少しずつ立ち上がっていく彼を支え続けた。
そうして稲垣征也も、次第に彼女を受け入れ、態度も少しずつやわらいでいった。
やがて二人は結婚した。
大きな幸せではなくても、穏やかな日々だと思っていた。
このままずっと続いていくのだと。
――3か月前までは。
津田真由が戻ってきたのだ。
不治の病で、余命半年しかないのだと、彼女は言った。
それから、すべてが変わった。
「近くに住みたい」と言えば、稲垣征也は隣の部屋を買って贈った。
「世界を見たい」と言えば、稲垣征也は彼女を連れてP国へ行った。
「その指輪が好き」と言えば、稲垣征也は先祖伝来の指輪をためらいもなく外し、彼女の手に渡した。
そしてついには、日織までも懐柔されていき、母である自分とは日に日に距離を置くようになった。
また胃が、きりりと痙攣する。
新藤鈴奈は唇を噛みしめ、いつの間にか血の跡をにじませていた。
手探りでスマホをつかみ、稲垣征也に電話をかける。
長いコール音のあと、ようやくつながった。
「もしもし?」
出たのは、津田真由だった。
新藤鈴奈の呼吸が、半拍止まる。
「義姉さん、征也にご用ですか?」
津田真由はやわらかな声で言った。
「さっき運動を終えたところで、今お風呂なんです。ご用件なら、わたしにおっしゃってくださっても同じですよ」
新藤鈴奈の唇が小さく震える。
けれど最後まで、何ひとつ口にできなかった。
そのまま通話を切る。
その夜ずっと、彼女はベッドの上で身を丸め、吐いては下し、胃が裂けそうな痛みに耐え続けた。
明け方になってようやく、階下から車のエンジン音が聞こえてくる。
稲垣征也が帰ってきたのだ。
寝室のドアが開く。
ベッドに座る新藤鈴奈を見て、彼は少し意外そうな顔をした。いつもならこの時間、彼女はもう下で朝食を作っているはずだったから。
「顔色が悪いな」
新藤鈴奈は彼を見なかった。
「昨夜、どこにいたの?」
稲垣征也は長い脚で室内へ入ってくる。
「真由のところだ。昨夜は具合が悪かったから、そばにいてやった」
「具合が悪いから、一晩中?」
新藤鈴奈の声は掠れていた。
「じゃあ、私は? 私があなたを必要としてたとき、あなたはどこにいたの?」
稲垣征也は一瞬だけ黙った。
「今は別に無事だろう」
新藤鈴奈は、もう何を言えばいいのかわからなくなった。
部屋に短い沈黙が落ちる。
どれほど経っただろう。
新藤鈴奈は突然、静かに口を開いた。
「稲垣征也、離婚しましょう」
冷えた彼の瞳に、かすかな揺らぎが走る。
「昨夜、俺が帰らなかった。それだけでか?」
結婚生活を押し潰すものが、たった一つの出来事であるはずがない。
けれどこの瞬間、新藤鈴奈はただ淡く微笑んだ。
「ええ。それだけよ」
稲垣征也の顔つきがやや沈む。
「真由の命は、もう3か月もない。お前とは事情が違う。理解してくれると思っていた」
また、その言葉だ。
――もう3か月しかない。
だから世界中が彼女に道を譲るべきなのか。
だから娘はそそのかされ、実の母親を傷つけてもいいのか。
だから夫は、よその女のそばで一晩中過ごしても許されるのか。
そして自分には、怒る資格すらないのか。
「もし、彼女が死ななかったら?」
新藤鈴奈は問い返した。
「そのまま一生、そうして尽くし続けるつもり?」
稲垣征也は言葉を失う。
「3か月後も生きていたら?」
新藤鈴奈は彼の目をまっすぐ見た。
「いつまでそばにいるの。一年? 二年? それとも一生?」
「新藤鈴奈!」
稲垣征也の目に濃い陰が落ちる。
「彼女は病人だ。そこまで悪意のある言い方をする必要があるのか?」
「病人なら何をしても許されるの?」
新藤鈴奈の呼吸が荒くなる。
「人の家庭を壊す権利まで与えられるの?」
「彼女はあなたの友だちでも、私の友だちじゃない。どうして私が、こんなものを全部耐えなきゃいけないの?」
稲垣征也の視線は、完全に冷えきっていた。
それは、彼が本気で怒る前触れだった。
時間が過ぎるほどに、部屋の空気は張り詰めていく。
「今のお前は感情的すぎる。落ち着いたら、また話そう」
そう言い残し、彼は背を向けた。
新藤鈴奈は息が詰まる。
感情的――
けれど、もともと彼女はこんなふうではなかった。
ただ、彼はいつだってそうだった。
彼女が問い詰めれば、彼は沈黙で返す。
以前はそれを、口下手で不器用な人なのだと思っていた。
後になって知ったのだ。
違う。
彼は言えないのではない。彼女に言う気がないだけだったのだと。
新藤鈴奈は目を閉じた。
こんなにも頭が冴えきったことは、これまで一度もない。
「稲垣征也」
机の前まで歩いていき、引き出しから一通の書類を取り出すと、彼の前へ置いた。
「もう話し合う必要はないわ」
稲垣征也が振り返り、その書類へ目を落とす。
眉間が深く寄った。
「もう署名したから」
新藤鈴奈は淡々と言う。
「子どもはいらない。あなたにあげる。どうせあの子にも私は必要ないし、真由おばちゃんがいればそれで十分なんでしょう」
稲垣征也の目に、嵐の気配が宿る。
何か言いかけたそのとき、スマホの着信音が鋭く鳴った。
画面を見た瞬間、彼はためらいもなく電話に出る。
部屋は静まり返っていた。
その静寂の中、受話器の向こうから津田真由の切迫した息遣いが漏れてくる。
「征也、苦しいの……わたし、もう死んじゃうのかな?」
