第2章
稲垣征也が電話に出た、その瞬間。
新藤鈴奈にはわかった。この話は、もう終わりだと。
案の定、稲垣征也は通話を切るなり、新藤鈴奈に目もくれず、そのまま背を向けて部屋を出ていった。
新藤鈴奈は手元の離婚届を見下ろし、自嘲気味に笑う。
さっきまで自分は、いったい何を言い争っていたのだろう。
あんなものに、何の意味があったのだろう。
離婚届を机へ戻し、彼女はキャリーケースを引っ張り出した。
この家にあるものは、この3年、少しずつ自分の手で揃えてきたものばかりだ。
けれど、いざ荷物をまとめてみると、本当に自分のものと呼べるものは、驚くほど少なかった。
新藤鈴奈はキャリーケースを引いて階下へ降り、玄関を出る前に、もう一度だけこの家を振り返った。
7年。
この場所に、彼女はまるごと7年間閉じ込められていた。
7年の時間と引き換えに手にしたのは、夫の無関心と娘の嫌悪だけ。
それ以外には、何ひとつ残っていない。
新藤鈴奈はもう迷わなかった。
振り返りもせず、別荘を後にする。
……
以前住んでいた小さな部屋へ戻り、丸一日かけて荷物を片づけた。
ようやく腰を下ろしたころには、外はすっかり暗くなっていた。
新藤鈴奈はソファに身を預け、ぼんやりと天井を見つめる。
いつもなら今ごろ、あの父娘二人の夕食を作っている時間だ。
急にぽっかり空いた時間に、少しだけ戸惑う。
スマホを取り出し、あてもなく画面を流していると、ふと長いこと開いていなかったアプリに指が触れた。
アカウントは大学時代に作ったまま。
アイコンは、かつて学内の演劇大会に出たときの舞台写真だった。
新藤鈴奈は自分のホーム画面を開く。
最後の投稿は、4年前で止まっていた。
『応援してくださった皆さま、本当にありがとうございます。個人的な事情により、しばらく表舞台から離れます。またご縁があれば、お会いしましょう』
コメント欄には、今もぽつぽつと書き込みが残っている。
『どうしてやめちゃったんですか? あのときの『雷と雨』、私3回観ました!』
『もったいなさすぎる……演技、本当にすごかったのに!』
『事務所に声かけられてたって聞いたけど、あれって結局どうなったの?』
新藤鈴奈は、少しぼんやりした気持ちで画面を見つめた。
不意に思い出す。
デビューしたばかりのころの自分を。
彼女は芝居が好きだった。
心から、演じることを愛していた。
学校へ入ったときも、実技と学科の両方で首席だった。
その後、小さな役をいくつか演じ、芸能事務所にも見初められた。
ところが、契約書を前にしたそのとき、自分が妊娠していることを知った。
あのころの稲垣征也は、彼女への態度もだいぶやわらいでいた。
子どもを産めば、二人の関係ももう少し前へ進むかもしれない。
そんな期待が、なかったわけではない。
だから彼女は契約を諦め、自ら専業主婦の道を選んだ。
一年、また一年。
気づけば、自分がかつて大勢の視線を浴びる存在だったことさえ、忘れかけていた。
新藤鈴奈は苦く笑い、アプリを閉じようとしたそのとき、スマホが震えた。
三浦江成。
大学時代の同級生で、映像監督専攻にいた男だ。
在学中から数々の受賞短編を撮っていた。
卒業後も順調にキャリアを積み、評価の高い映画を何本も手がけ、業界内でもかなり名の知られた存在になっている。
ただ、二人はもう長いこと連絡を取っていなかった。
新藤鈴奈は通話を取る。
「鈴奈?」
受話口の向こうから届いた声は、温和で澄んでいた。
「俺だけど、今大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
新藤鈴奈は少し間を置いて、
「久しぶり」
「ほんとにな」
三浦江成は笑った。
「単刀直入に言うよ。今、新作ドラマを準備してる。共演陣はみんな一線級だ。ただ、主演女優のほうで少し問題が出てさ。最初に浮かんだのが君だった。どうだ、やってみる気はないか?」
新藤鈴奈は息をのむ。
「……私が?」
「そう、君だ」
三浦江成の声は真剣だった。
「鈴奈、君は俺が見てきた中で、いちばん瑞々しい才能を持った役者の一人だ」
新藤鈴奈はスマホを握る手に、わずかに力を込める。
「でも……もう何年も芝居なんてしてない」
「だから何だよ?」
三浦江成は軽く笑った。
「骨の髄まで染みついたものは、そう簡単には消えない。君が答えるべきなのは一つだけだ」
少し間を置いて、彼は言った。
「――戻りたいか?」
戻りたいか。
その一言に、新藤鈴奈の胸の奥が強く揺れた。
「……私、戻れるのかな」
「戻りたいなら、いつだって戻れる」
新藤鈴奈の目頭が熱くなる。
しばらくして、彼女の眼差しは静かに定まった。
「わかった。やってみる」
「よし、決まりだ」
三浦江成は明るく言った。
「台本をメールで送る。先に読んでおいてくれ。1週間後にクランクインだ」
通話を終えると、ほどなくして台本が届いた。
何ページか読んだだけで、物語にぐいぐい引き込まれる。
その夜、親友から位置情報付きのメッセージが届いた。
食事に来ないか、という誘いだった。
しかも場所は、ずっと稲垣征也と一緒に行きたいと思っていた、あのレストランだった。
けれど彼は、毎回忙しいと言った。
そのうち彼女も、二度と口にしなくなった。
新藤鈴奈はためらわず、『行く』と返した。
……
夜8時。
新藤鈴奈はレストランを訪れた。
薄くメイクを施し、髪はゆるくまとめてある。
すっきりと華やかで、明るい空気を纏っていた。
だが、店内に足を踏み入れた瞬間、彼女の足は止まった。
窓際のいちばんいい席。
そこには大勢が集まり、テーブルにはキャンドルと花が飾られていた。
主賓席には、稲垣征也の姿があった。
その隣には、可愛らしいプリンセスドレス姿の日織。
そして日織は、津田真由にぴたりと抱きついていた。
「お誕生日おめでとう!」
小さな女の子は津田真由の頬にちゅっとキスをする。
「日織ね、真由おばちゃんがいちばん好き!」
津田真由は笑って、娘の頭をやさしく撫でた。
「ありがとう、日織ちゃん」
「真由おばちゃん、お誕生日のお願いごと、ひとつ増やしていい? 早くパパとあたしと真由おばちゃんで、本当の家族になれますようにって。ずっとあたしのママでいてほしいの!」
津田真由は頬を染め、ちらりと稲垣征也を見やる。
「日織、そんなこと言っちゃだめよ」
けれど稲垣征也は、隣に座ったまま唇の端をわずかに上げただけで、否定しなかった。
津田真由の友人たちが、囃し立てるように声を上げる。
「きゃー、三人家族って感じで甘すぎるでしょ!」
「真由ってほんと幸せよね。稲垣社長みたいな男の人にあんなに大事にされて」
――ああ、これが家族の形なのか。
新藤鈴奈はその場に立ち尽くしたまま、長い睫毛をかすかに震わせた。
目の奥がつんと痛くなるまで眺めて、それからようやく背を向ける。
「鈴奈さん?」
津田真由が彼女に気づいた。
声はどこまでも明るい。
「こんなところで会うなんて偶然ですね。お食事ですか?」
その場にいた全員の視線が、一斉に新藤鈴奈へ集まる。
稲垣征也は彼女を見ると、わずかに眉をひそめた。
津田真由の友人たちは、意味ありげに笑った。
稲垣征也と新藤鈴奈の仲がうまくいっていないと知っているからこそ、遠慮がない。
「今どき、この店ってこんなに敷居低かったっけ。専業主婦でも来られるんだ?」
「へえ、家庭に入ってるだけの人なんだ」
別の女も便乗する。
「男のお金で来ておいて、よく平気でいられるよね。うちの真由とは大違い。今日だって三浦監督から電話もらって、主演女優やってくれって言われたんだから」
「三浦監督の作品なんて、当たるに決まってるし。真由もこれで大スターね!」
津田真由は照れたように俯いた。
「そんなふうに言わないで。ちゃんと演じられるかどうか、まだわからないし……ただ、もう長くないから、せめて代表作を一つ残したいなって思っただけなの」
三浦監督――三浦江成?
新藤鈴奈は眉を上げた。
主演女優をやってほしい?
それなら、自分に回ってきた話は何だったのだろう。
そのとき、津田真由が親しげに手を振る。
「鈴奈さん、せっかくですし、こちらでご一緒しませんか? 今日はわたしの誕生日なんです。人数が多いほうがにぎやかでいいでしょう?」
新藤鈴奈は遠慮しなかった。
そのまま歩み寄る。
さっきいちばん口の悪かった女が、彼女を斜め目で見ていた。
口元にはまだ薄い嘲りの笑みがある。
新藤鈴奈はその女の前で立ち止まった。
「今、何て言ったの?」
女は一瞬ひるんだが、すぐに顎を上げる。
「だから、あなたみたいな専業主婦が真由に敵うわけないって――どうしたの、本当のこと言われたら困る……」
最後まで言い切る前に。
ばしゃっ、と。
赤ワインが、その女の顔面にまともに浴びせかけられた。
