第三章
辰の表情が、みるみるうちに険しくなった。
「いい加減にしろ」紗夜を睨みつけ、声を低く抑え、隠す気もない苛立ちを滲ませて言った。「離婚、親権だと、軽々しく言いやがって――何かの遊びだとでも思ってるのか?」
紗夜は彼を見ず、俯いて遥の襟元を直してやる。
「私の言ったことは、すべて本気です」
「本気だと?」辰はフンと鼻を鳴らし、一歩、紗夜に詰め寄る。「結城紗夜、お前がそんな芝居をして、俺が信じるとでも思ったか?」
彼はこの女のことを知り尽くしている。
これまで紗夜は何度か離婚を口にしてきたが、それはいつも気を引きたいがためのものだった。
瑞樹を手放せるはずがない。この家を捨てられるはずがない。離婚など、できるわけがないのだ。
これもまた、俺に頭を下げさせるための、駆け引きの一環に違いない。
三日もすれば音を上げるだろう。どうせ夜には一人で部屋に籠って泣いているに決まっている。そして翌朝には、また泣き腫らした目で朝食を運んでくるのだ。
六年間、彼女は一度も本気で離れようとしたことはなかった。今回だけが例外であるはずがない。
紗夜は、ようやく彼に視線を向けた。
その瞳には、彼が予想していたような震えも哀れみもなかった。何の感情もなく、まるで氷の張った湖面のように、彼の姿をまったく映し出さない。
「あなたと相談しているのではありません、黒沢さん」彼女の声はとても静かだったが、一言一言がはっきりと響いた。「あなたに、通知しているんです」
辰は眉をひそめ、なおも何かを言おうとしたが、紗夜はすでに背を向け、遥の手を引いて自分の病室へと歩き出していた。その足取りに、迷いは微塵もなかった。
紗夜の背中が廊下の角に消えた途端、絵里の瞳から涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
彼女は顔を覆い、肩を微かに震わせ、ちょうどいい加減の嗚咽を交えて言う。「私のせいですわ……私がいたから、紗夜さんがあんなことを……」
瑞樹がすぐに絵里のそばへ駆け寄り、小さな手で彼女の服の裾を掴んだ。焦りから声が上ずる。「絵里おばさん、悪くないよ!ママが悪いんだよ、なんで絵里おばさんに怒るんだよ!」
絵里は潤んだ瞳で、それでも健気に首を横に振る。「瑞樹ちゃん、いい子だから。ママのこと、そんなふうに言っちゃだめよ」
そうは言うものの、涙に濡れた瞳はちらりと辰に向けられ、隠しようのない哀れみを湛えていた。
男はこういうのに弱いと、彼女は知っている。
紗夜のように、何でも一人で抱え込み、泣きも騒ぎもしない性格は、辰の目には「面白味がない」と映る。
そして、自分のような女こそが、「守ってあげたい」存在なのだ。
辰は彼女のそばへ歩み寄り、珍しく穏やかな声色で言った。「君のせいじゃない。彼女が我儘なだけだ」
絵里は低くすすり泣き、やがて落ち着きを取り戻すと、そっと辰の肩に寄りかかった。
心の中は、まったく別の景色が広がっていた。
紗夜がさっさと離婚届に判を押してくれればいい。
瑞樹はもう完全に私の味方だし、辰の気持ちがあともう少し揺らげば、黒沢夫人の座は私のものになる。
彼女はそっと口角を上げたが、すぐにその得意げな笑みを隠し、再びしくしくと泣き始めた。
病室に戻った紗夜は、遥を寝かしつけた後、親友の相沢薫に電話をかけた。
「薫」か細いが、不思議なほど落ち着いた声で切り出した。「腕のいい弁護士さんを探してほしいの。離婚するための」
電話の向こうで二秒ほどの沈黙があり、すぐに薫の声が返ってきた。「やっと決心がついたの?」
薫には、紗夜がこれまでどれだけ尽くしてきたか、痛いほどわかっていた。
瑞樹の身体のために、自分のキャリアさえも捨て、一日たりともぐっすり眠れず、身も心もこの家にすり減らしてきた。
その結果、得られたものは何だったというのか。
黒沢辰の目が、いつ本気で彼女に向けられたことがあっただろう。
薫はずっと紗夜のために憤りを感じていたが、彼女は何年も耐え続けてきたのだ。
「うん」紗夜は固く握りしめた自分の指を見つめながら言った。「財産はいらない。でも、遥の親権だけは、絶対に譲れないの」
薫はため息をつき、探るような口調で尋ねた。「本当に決めたのね?あいつにちょっと甘い言葉をかけられて、また考え直したりしないでよ」
「もう、ないわ」紗夜の声は淡々としていたが、揺るぎない決意が滲んでいた。
電話の向こうで薫はそれ以上何も言わず、「わかった」とだけ応えた。
二日後、紗夜は退院手続きを済ませた。
傷の回復は順調で、もう松葉杖は必要なかった。
辰には連絡しなかった。
電話したところで、あの人が来てくれるはずもないとわかっていたから。
手続きを終え、彼女は遥を連れて黒沢家に戻った。
この時間は辰が会社にいるため、邸宅は静まり返っている。
彼女は足早に寝室へ入ると、クローゼットを開けて荷造りを始めた。
彼女の荷物は多くなかった。
結婚してから買い足した服は数えるほどで、そのほとんどが結婚前に自分で買ったものだ。
ただ、遥の小さなワンピースだけは、何度も丁寧に畳み直し、スーツケースにそっとしまった。
荷造りの途中、紗夜は瑞樹の部屋のドアの前で足を止めた。
ドアは少しだけ開いていて、中は静かだった。
視線が、学習机の上のクレヨン画に落ちる――そこには、ぐにゃぐにゃの線で、大人二人と子供一人が描かれていた。傍らには『パパ、えりおばさん、みずき』と書かれている。
そこに、紗夜と遥の姿はなかった。
紗夜はその絵を数秒見つめ、静かにドアを閉めた。
それでいい。
彼女は自分の部屋に戻ると、スーツケースのジッパーを引き上げた。
入院中に、二LDKのマンションをすでに探しておいた。結婚前に貯めたお金で、敷金と最初の月の家賃は支払い済みだ。
離婚を決めた以上、黒沢家を出ることが第一歩。
次は仕事のことを考えなければ。遥に安定した生活を送らせてあげられるように。
遥と、二つの簡単なスーツケースを手に、紗夜は新しい家のドアを開けた。
広くはないが、清潔で日当たりも良い。
遥は玄関に立ち、物珍しそうに知らない部屋を見回すと、顔を上げて尋ねた。「ママ、これからはずっとここに住むの?」
紗夜は娘と視線を合わせるように屈み込むと、風で乱れた前髪を優しく直してやった。「ここが、私たちの新しいおうちよ。気に入った?」
遥は瞬きをし、わかったような、わからないような顔で頷くと、もう一度、今度は力強く頷いた。「好き」
紗夜は微笑み、娘を腕の中に抱きしめた。
遥が『好き』と言ったのは、ママがここにいるからだということを、紗夜はわかっていた。
辰が仕事を終えて邸宅に戻った頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。
玄関のドアを開け、いつものように靴を脱ごうとして、自分のためのスリッパが用意されていないことに気づいた。
彼は眉をひそめ、靴箱から予備の一足を引っ張り出して履き替えた。
リビングに入る。いつもなら、食卓には温かい夕食と、淹れたてのお茶が用意されている時間だ。
紗夜はいつも、辰の帰宅時間を見計らって、出来立ての料理とちょうどいい温度のお茶を準備していた。
今、テーブルの上には何もない。
辰はがらんとしたリビングに立ち尽くし、声をかけた。「紗夜」
返事はない。
彼はもう一度、今度は少し声を張り上げて呼んだ。「紗夜!」
やはり沈黙が返ってくるだけだった。
まだ拗ねているのか?
辰は心の中で冷笑し、この女のやり口は実に幼稚だと呆れた。
二日も経つのに、まだ機嫌が直らないとは。
彼は紗夜の寝室へと向かった。
子供が生まれてからずっと、二人は寝室を別にしていた。子育てのためという名目だったが、辰のほうから彼女と同室で眠りたいと思ったことは一度もなかった。
彼はドアに手をかけ、押し開ける。部屋は真っ暗だった。
壁のスイッチに手を伸ばす。その唇には、まだどこか見下したような苛立ちが浮かんでいた。「紗夜、一体いつまで──」
