第3章
電話は乱暴に切られた。ツー、ツーという虚しい発信音を聞きながら、渡辺美咲は胸の奥が小さくへこむのを感じた。
母親なのに、ここまで嫌われるなんて。
――私、母として失格なのかもしれない。
その考えを振り払うように、美咲は荷物をまとめ、皮膚科に頼み込んで調合してもらった軟膏を手に家を出た。届け先は病院だ。
ところが到着すると、入口で警備員に止められる。
「田中社長に薬をお届けしに来ただけです。渡したらすぐ帰ります」
美咲が説明すると、警備員は首を横に振った。
「申し訳ありません。当院は私立病院ですので、患者ご本人の許可がない方はお通しできません。田中社長にお電話いただけますか」
美咲は頷くしかなかった。だが田中康介にかけても、田中健人にかけても、呼び出し音が鳴るばかりで誰も出ない。
そのとき、さっきまで晴れていた空が急に翳り、次の瞬間、豆粒みたいな雨が滝のように落ちてきた。逃げ場がない。あっという間に全身がびしょ濡れになる。
美咲は焦って、もう一度だけ田中康介へ発信した。
『申し訳ございません。おかけになった電話番号は――』
胸が沈んでいく。
その様子を見た警備員が、とうとう折れた。
「……お嬢ちゃん、入っていいよ。でも薬を渡したらすぐ出てきてね。こっちが困るからさ」
「ありがとうございます」
美咲は小さく頭を下げ、急いで中へ駆け込んだ。
廊下を行ったり来たりしながら病室を探す。ようやく田中健人の病室の前に辿り着いた、その瞬間――中から声が漏れた。
「莉々おばさん、さっき電話でママに病気って嘘ついたんだ。絶対、薬持って来るから」
「外、雨だしさ。ちょうどいいよ。雨にでも打たれて、頭冷やせばいいんだ。目ぇ覚ませって」
美咲の足が、その場に縫い付けられたみたいに動かなくなった。冷えが足元から背骨を這い上がり、頭のてっぺんまで突き抜ける。
「えっ、健人……そんなことしちゃだめ。どんなことがあっても、あなたのお母さんでしょう」
渡辺莉々の、わざとらしい驚き声がドアの隙間から響く。
「自業自得だよ!」健人が声を荒げた。
「だって莉々おばさんいじめたじゃん!」
美咲は、ゆっくりと視線を扉へ移した。ガラス越しに見えるのは――自分が十月十日抱えて産んだ子どもが、莉々の腕に甘える姿。彼女を喜ばせるために、わざとらしく無邪気に振る舞っている。
そして自分は、そのための道具にされている。
「私は平気だよ。健人、もう美咲を帰らせて」
莉々が俯き、耐えるように言った。
健人は鼻を鳴らした。
「やだ。莉々おばさん休んでて。俺、パパとお粥買ってくる」
ベッドから軽い足取りで降り、扉へ向かう。
美咲ははっとして、反射的に横へ身を隠した。足音が遠ざかる。角を曲がった、その瞬間――莉々と目が合った。
彼女は、薄く笑っていた。
「聞いてたでしょ」
莉々は嘲るように言う。
「健人、私のためにわざとあなたを雨に濡らしたの。相変わらず役立たずね。両親に嫌われ、旦那の心は離れ、息子は他人をママって呼びたがる。ついていきたくもないって」
「……それでも生きてる顔、あるの?」
美咲の頭の中が、じわじわと鳴り続けた。しばらくして、唇を歪めて笑う。
「浮気相手にも、母親代わりにもなりたがるあなたが生きてるなら、私だって生きてる意味くらいあるわ」
莉々の表情が歪む。
「そもそも、あんたが私のふりをしなかったら、田中康介と結婚できたと思ってるの?」
美咲は淡々と返した。
「だから何? 少なくとも今、あなたが帰ってきても、彼は私を追い出してない」
その一言が、莉々の恐怖を刺激した。帰国すれば元通りになると思っていたのに、半年経っても康介は世話こそしても、恋人みたいな触れ合いはほとんどない。
それでも、美咲に嘲られる筋合いはない。
莉々が手を振り上げた。叩かれる――そう思った瞬間、彼女は向きを変え、自分の頬を思い切り叩いた。
乾いた音。頬に五本の指の跡がくっきりと浮かぶ。
美咲が理解する前に、身体が強く突き飛ばされた。後が壁にぶつかり、目の前が暗くなるほどの激痛。
「渡辺美咲。家で莉々をいじめるだけじゃ足りなくて、病院まで追いかけて殴るのか」
田中康介の声が氷みたいに冷たい。
健人も小さな手を広げ、莉々を庇った。
「雨に濡らそうって言ったのは俺だよ! 殴るなら俺を殴れよ、なんで莉々おばさん叩くんだよ!」
美咲は痛みの中で意識をつなぎとめた。追い打ちみたいに、健人の声が飛ぶ。
「早く莉々おばさんに謝れ! じゃないとパパに離婚してもらう!」
揺れた感情が、一瞬で凪いだ。
美咲は康介を見上げる。
「……分かった。離婚しよう」
空気が止まる。
健人が目を見開いた。
「え……おまえ……」
美咲は軟膏を差し出し、薄く笑う。
「私とパパが離婚すれば、あなたは好きなだけ莉々をママって呼べる。もうわざわざ工夫して、保護者会も彼女に代わりに出させなくていい」
健人の顔がさっと青ざめた。
「なんで知ってるの?」
――どうして知ってるのか。
その言葉を、美咲は口の中で転がして、自嘲した。
保護者会は、彼女が怪我をして間もない頃だった。健人は学校からの通知を彼女のスマホからこっそり削除し、当日は突然、手作りのケーキが食べたいと泣き喚いた。美咲は痛みを堪え、必死に焼いた。
あのときは「また甘えてくれた」と嬉しかった。だからケーキを抱えて学校へ走り――目にしたのは、莉々に抱きついて「ママ」と呼ぶ息子だった。
ケーキは床に落ち、粘ついたゴミになった。
美咲は邪魔をせず、黙って帰った。
「いい加減にしろ。保護者会くらいで、子ども相手にくだらない」
康介が眉をひそめる。
健人も、慌てた表情を一瞬で整えた。
「ママが怪我してたから、莉々おばさんに行ってもらったんだよ。それくらいで怒るなんて、最近ほんと面倒」
「健人!」
莉々が小さく制し、困ったふりで美咲を見る。
「美咲、子どもの言うことだよ、気にしないで。ねえ、午後遊園地行きたいって。みんなで行こう?」
美咲は静かな目で健人を見た。
以前、関係を戻そうと遊園地に誘ったことがある。毎回、吐き捨てるように断られた。
『あんなところ、子どもっぽすぎるだろ。少しはつまらないことばっかり考えるの、やめたら?』
遊園地も、相手次第なのだ。
美咲は首を振った。
「やめておく。用事があるから。楽しんで」
そう言って背を向けた。後ろの三人の表情がどう変わろうと、もう関係ない。
帰宅したのは午後二時か三時。熱いシャワーを浴び、横になろうとした時、けたたましく電話が鳴った。
「美咲! 健人が大変なの!」
