第4章 誰がけしかけた?

受話器の向こうで、渡辺莉々の声がひどく取り乱していた。

渡辺美咲の心臓がぎゅっと縮む。上着をひったくるように掴み、そのまま玄関を飛び出した。

靴に履き替える余裕すらない。スリッパのまま車庫まで駆け抜け、エンジンをかけると、遊園地へ向けて車を飛ばした。

走っているあいだじゅう、渡辺美咲の胸は張り裂けそうなほど高鳴っていた。

脳裏に何度も浮かぶのは、田中健人のあどけない、やわらかな顔。

何度あの子に心を傷つけられても、それでも――あの子は自分が十月十日お腹で育て、命がけで産んだ子だ。長いあいだ、胸のいちばん大事なところで守り続けてきた宝物だった。

遊園地の入口で車がきいっと急停止する。渡辺美咲はドアを押し開けるなり、中へ駆け出した。

少し先に、救護室のまわりへ人だかりができているのが見えた。

その中心。椅子に座らされている田中健人の小さな顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。

負傷した腕は医療スタッフに応急固定され、だらりと脇に下がっている。痛みのせいか、身体は小刻みに震えていた。

その傍らには、目を真っ赤にした渡辺莉々。胸元へ手を当て、ひどく怯えきった顔で、ぶつぶつと繰り返している。

「私のせい……私のせいよ。健人をちゃんと見ていられなかった……」

「健人!」

渡辺美咲はスタッフのあいだを押し分け、まっすぐ飛び込んだ。

しゃがみ込み、腕に触れようとして――けれど痛がらせるのが怖くて、その手を止める。代わりに健人の小さな手を強く握りしめ、潤んだ目で顔を覗き込んだ。

「健人、痛い? どうして落ちたの? ママに話して」

田中健人は彼女を見上げた瞬間、唇をへの字に曲げた。次の瞬間、涙はますます勢いを増す。

彼は顔を背け、何も言おうとしない。ただ、渡辺莉々のいるほうへ身体を寄せた。

その仕草に、渡辺美咲の胸がどすんと沈む。

けれどすぐに顔を上げ、渡辺莉々を真っ向から見据えた。声には焦りと怒気が滲む。

「渡辺莉々、どういうこと? なんで健人があんな高いところから落ちるの? あの高い滑り台、大人用だってちゃんと書いてあったでしょう。どうして触らせたの?」

駆け込んできたとき、渡辺美咲はひと目で見ていた。少し離れた場所にある、大人用の滑り台を。

3mを超える高さ。大人が使っても危うい遊具だ。まして身体の弱い田中健人にやらせるなんて、正気ではない。

渡辺莉々がそれを知らないはずがない。それでも止めなかった――いや、むしろ進んでやらせたのだとしか思えなかった。

厳しく問い詰められた渡辺莉々は、さっと顔色を失い、反射的に一歩退く。だがすぐに目元をさらに赤くし、涙を拭いながら、いかにも傷ついた声音で言った。

「美咲、どうしてそんな言い方するの……? 健人にやらせたのは、あなたじゃない。あなたが『この子の度胸を鍛えたい』って言って、私が止めても聞かなかったの。何度もやめたほうがいいって言ったのに、『余計な口出ししないで』って……それで無理やり上に行かせて、そしたら……そしたら事故になったのよ……」

言いながら、肩をかすかに震わせる。顔には自責と恐怖が入り混じったような表情。

そんな姿を見せられれば、事情を知らない人間は誰だって同情する。

案の定、周囲にいたスタッフたちの視線が、いっせいに渡辺美咲へ向いた。そこに宿るのは露骨な非難だ。

彼らはさっきまで現場にいたのだ。渡辺莉々が子どもの手を引き止めるようにして、高い滑り台のほうへ何度も手を振っていたのを見ている。あれが止めようとしている仕草に見えたのだろう。

それに対して、渡辺美咲は今しがた息を切らせて駆け込んできたばかり。必死な顔つきさえ、傍から見れば後ろめたさの裏返しに映るのかもしれない。

あまりにも馬鹿げた話だった。胸が悪くなるほど、理不尽だった。

電話を受けた瞬間に飛び出してきたのだ。遊園地に着いたのだって、ほんの数分前。

いつ健人に会って、いつあの滑り台へ行けなどと言ったというのか。

渡辺莉々は、白昼堂々と嘘を並べ、すべての責任を自分に押しつけようとしている。

「ふざけないで」

渡辺美咲は勢いよく立ち上がった。視線は氷のように冷たい。

「電話をもらって、すぐここへ来たの。健人がいつ遊園地に来たのかも知らないし、この中にどんな遊具があるのかだって知らなかった。そんな私が、どうやって高い滑り台で遊ばせるの?」

「あなたこそ胸に手を当てて考えて。健人をその気にさせたのは、いったい誰?」

澄んだ声が、場の空気をまっすぐ切り裂いた。渡辺莉々のすすり泣きさえ、一瞬掻き消すほどに。

その目に射抜かれ、渡辺莉々の表情がわずかに揺らぐ。だが、ここで責任を認めるわけにはいかないのだろう。すぐに語気を強めた。

「認めないつもりなの? さっきだって、あなたと私が言い争ってるところをスタッフさんが見てたじゃない! 健人にあんなことさせて、よくそんな顔できるわね!」

言い争いの最中、ばたばたと切迫した足音が近づいてきた。

振り向く間もなく、田中康介が駆け込んでくる。スーツは少し乱れ、額には汗が滲んでいた。急いで来たことは一目で分かった。

そして彼は、椅子に座る田中健人を見た途端、顔色を変えた。

足早に駆け寄り、子どもの前へしゃがみ込む。声には隠しきれない心配が滲んでいた。

「健人、大丈夫か。痛むのか? 何があった」

父親の姿を見た瞬間、田中健人は堪えていたものをこらえきれなくなったように、わっと泣き出した。

「パパ……腕、痛い……」

田中康介は痛ましげにその頭を撫でると、立ち上がって二人の女へ視線を走らせた。

最後にその目が止まったのは、泣き崩れる渡辺莉々のほうだった。声は硬く、冷えきっている。

「どういうことだ。どうして健人が落ちた」

その問いを待っていたかのように、渡辺莉々はすがるように田中康介のそばへ寄った。裾を掴み、声を上げて泣き出す。

「康介……私のせいよ、私が止めきれなかったの。美咲が『健人の度胸をつけたい』って言って、どうしてもあの高い滑り台をやらせるって聞かなくて……私、何度も止めたのに、『口出ししないで』って怒られて……それで健人が上に行って、手を滑らせて落ちて……」

「私、本当に止めようとしたの……!」

言葉の端々で、ちらりと渡辺美咲へ流れる横目。そこに潜む、かすかな優越。

次の瞬間、田中康介の顔色がさっと鉄色に変わった。

勢いよく振り向いた目には、怒りが剥き出しで燃えている。

「渡辺美咲、お前……頭がおかしいのか?」

「3mもある滑り台だぞ。健人はまだ子どもだ。あんな危険な遊具をやらせるなんて――お前にとって、あの子は何なんだ」

叩きつけるような怒声だった。

その中に混じる激しい非難と失望が、重い槌みたいに渡辺美咲の胸を打ち据える。

「違う!」

渡辺美咲は目を赤くしたまま、きっぱりと言い返した。一歩前へ出る。

「電話を受けて、急いで来ただけよ。着いたときにはもう健人は怪我してた。それまで私は健人に会ってもいない」

「信じられないなら、防犯カメラを確認すればいい。映像を見れば、何が本当か分かるでしょう」

防犯カメラ――その言葉を出されて困るのは、後ろ暗いことをした側のはずだった。

だが、渡辺莉々はすぐさま涙をこぼし、さらに弱々しく訴える。

「康介、見て……この人、間違いを認めないどころか、防犯カメラで脅してくるの。私、本当に嘘なんてついてない……!」

ぶるぶると震える肩。怯えきった顔。

それに加えて、これまでの渡辺美咲の「渡辺莉々への当たりの強さ」を思い出したのだろう。

田中康介の心は、完全に向こうへ傾いた。

彼は手を伸ばし、渡辺美咲の肩を掴むと、そのまま乱暴に突き飛ばした。声だけは妙に静かだったが、そのぶん底冷えがした。

「まだ言い逃れするつもりか」

「健人はここにいる。あの子に聞けば、真実くらいすぐ分かる」

そう言い捨てると、田中康介は再びしゃがみ込み、田中健人の肩へそっと手を置いた。

声音だけは柔らかい。けれど逃げ道を塞ぐような真剣さがそこにはあった。

「健人。パパに教えてくれ」

「高い滑り台で遊べって言ったのは、いったい誰だ? 怖がらなくていい。正直に話しなさい」

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