第5章 もういらない
田中健人の視線が、渡辺美咲の真っ赤な瞳にぶつかった。そこには張り詰めたものと、ほんのわずかな怯えが揺れていた。
口を開きかけた瞬間、脳裏に浮かんだのは、いつも優しい渡辺莉々の顔だった。手を握りながら、寂しげに「健人、おばさんにはもうパパしかいないの」と言っていた姿も。
自分が本当のことを言えば、田中康介はきっと怒る。そうなれば、渡辺莉々との間にも溝ができる。
そんな思いが蔦のように胸に絡みつき、心の奥にかろうじて残っていた罪悪感を、きれいに締め殺した。
田中健人は目を伏せ、渡辺美咲から視線を逸らした。小さな手で怪我をした腕をぎゅっと抱え込み、泣き声まじりの声で、それでもはっきりと言う。
「パパ……ママだよ。ママがやれって言ったの。僕は度胸があるから、鍛えたほうがいいって。莉々おばさんが止めたのに、ママ、おばさんは余計なことするなって……」
その言葉は、一つひとつが氷を塗り込めた針みたいに、容赦なく渡辺美咲の心臓に突き刺さった。
渡辺美咲はその場に立ち尽くした。全身の血が、この瞬間にすべて凍りついたようだった。
信じられないものを見る目で、目の前の子どもを見つめる。胸の中は、ひたすら冷たかった。
この子は、自分が十月十日お腹で育て、命がけの痛みに耐えて産んだ子だ。八年間、守ってきた宝物だった。
それなのに今、その子は別の女のために、ためらいもなく母親の胸へ刃を差し込んでくる。
周囲のひそひそ声が、遠くで滲むように聞こえた。スタッフたちの視線には、ますますあからさまな軽蔑が滲んでいく。
渡辺莉々は田中康介の腕の中に身を寄せ、唇の端にほんのかすかな得意げな笑みを浮かべた。だがそれも一瞬で、心配そうな表情に塗り替えられる。
田中康介は勢いよく立ち上がった。渡辺美咲を見る目に、もう信頼はひとかけらもない。ただ燃え盛る怒りと、骨まで冷えるような失望だけがあった。
一歩、また一歩と彼女の前まで歩み寄る。長身が落とす濃い影が、渡辺美咲をすっぽりと覆い隠した。
「渡辺美咲。お前は、もうどうしようもないな」
たったそれだけの言葉だった。
なのに、渡辺美咲の胸の奥に残っていた最後の縋りつきまで、粉々に砕くには十分だった。
彼女は田中康介を見た。それから、渡辺莉々の後ろに隠れるようにして、自分と目を合わせようとしない田中健人を見る。
瞳の光が、少しずつ、少しずつ消えていく。最後に残ったのは、死んだような静けさだけだった。
渡辺美咲はもう何も言い返さなかった。涙も出ない。
ただ、口元をかすかに引いて、苦い笑みを浮かべた。
――どうしようもない。
そうかもしれない。
この人生でいちばんの過ちは、田中康介を愛したこと。田中健人を産んだこと。
それなのに、自分は十年も捨てきれなかった。形ばかりの結婚にしがみついて、惨めなほど尽くし続けてきた。
渡辺美咲はくるりと背を向け、そのまま一歩ずつ遊園地の外へ向かって歩き出した。
背筋はまっすぐ伸びている。けれど、その背中には言葉にできない寂しさと侘しさが滲んでいた。
背後から、田中康介の怒鳴り声と田中健人の泣き声がかすかに追いかけてくる。
それでも、渡辺美咲は振り返らない。
心が死んでしまえば、もう何も痛くない。
タクシーで田中家へ戻り、扉を開けた瞬間、渡辺美咲の視界に入ったのは、リビングのソファにきっちりと腰掛けた田中母の姿だった。手には湯気の立つ茶碗。顔色はどんよりと沈んでいる。
話は、もう耳に入っているのだろう。
渡辺美咲は靴を履き替えると、そのまままっすぐ二階へ向かった。挨拶をする気にもなれない。
「お待ちなさい」
田中母の声が飛ぶ。冷たく、氷を噛んだような声音だった。
渡辺美咲は足を止めたが、振り返りはしなかった。
「渡辺美咲……よくもまあ、あんなことができたものね!」
田中母は茶碗をテーブルへ乱暴に置いた。かちん、と硬い音が響く。
「健人がまだいくつだと思ってるの。あんな危ないものをやらせて、あんな怪我までさせて……いったい何を考えてるのよ。私、あのとき本当に目が曇ってたわ。康介のそばにいてほしいなんて、あなたに頼んだのが間違いだった!」
渡辺美咲はゆっくりと振り返った。田中母を見ても、その目には何の揺れもない。
十年前のことを思い出す。田中康介が事故に遭い、両目を失い、ひどく荒れていた頃。田中母は目を真っ赤にして渡辺美咲のもとへ来て、その手を掴み、必死に頼み込んだのだ。
――美咲さん、お願い。康介を助けて。この子のそばにいてあげて。今の康介を支えられるのは、あなたしかいないの。お願いだから。
あの頃の田中母は、泣きそうな顔で何度も頭を下げた。美咲が康介のそばにいてくれるなら、田中家は決して粗末にはしないとまで言った。
それなのに。
十年、彼を支えた。子どもも産んだ。家のことも全部やった。
返ってきたのは、こんな言葉だった。
「私が何を考えていたか……いちばん分かっているのは、あなたじゃないですか」
渡辺美咲の声は静かだった。けれど、うっすらと冷えた刃が混じっている。
「最初に私に渡辺莉々の代わりをさせたのは、あなたです。田中康介のそばに置いて、結婚まで無理に進めた。なのに今さら、全部私のせいにするんですか」
田中母は言葉に詰まった。だが次の瞬間には、さらに険しい顔になる。
「私が頼んだのは、康介の面倒を見ることと、健人をちゃんと育てることよ! 莉々を敵視しろなんて頼んでないし、子どもの命を張り合いの道具にしろとも言ってない!」
息を荒げ、さらに言葉を重ねる。
「結婚して何年になると思ってるの。子どもを産んだ以外に、あなたに何ができたの? 夫の心ひとつ繋ぎ止められないで、莉々が帰ってきたらあっという間に奪われた。支えになる? 笑わせないで。あなたみたいな女、置いておいて何になるの」
そのあまりに身勝手で、あまりに残酷な言葉に、渡辺美咲はふっと笑った。乾いていて、ひどく痛い笑いだった。
「男の心を繋ぎ止められなかったことが、全部私のせいだと言うんですか?」
渡辺美咲の目が鋭く細まる。
「それなら、あなたがご自分の息子にきちんと教えてあげてください。責任とは何か、夫婦とは何なのか。
それから、あれもこれも欲しがるような真似はやめろって。ひとりの不倫相手を家に入り込ませて、この家庭を壊すようなことはするなって――」
「あなた……!」
田中母は怒りでぶるぶる震え、指先を向けたまま言葉を失った。
もともと田中母は、渡辺美咲なら扱いやすいと思っていた。だからこそ渡辺莉々の代わりとして田中康介のそばに置き、彼を立ち直らせようとしたのだ。
その後、不満がまったくなかったわけではない。だが、渡辺美咲が田中健人を産んだこともあり、表向きはそれなりの顔を見せてきた。
けれど渡辺莉々が帰国してからは違う。田中母の目には、渡辺美咲の醜さばかりが映るようになった。
むしろ心のどこかでは、苛立っていた。
やはり渡辺美咲では、渡辺莉々には敵わないのだと。
でなければ、戻ってきただけで田中康介の心をあれほど掴み、田中健人まで心を開かせられるはずがない。
怒りに顔を歪める田中母を見つめながら、渡辺美咲は笑みを消した。声は恐ろしいほど静かだった。
「そんなに怒らなくて大丈夫です」
そして、淡々と続ける。
「安心してください。私と田中康介は、もうすぐ離婚します。この田中家も、この形だけの結婚も、もういりません」
あまりにも淡々としていて、まるで取るに足りないことを告げているだけのようだった。
田中母はその場に立ち尽くした。何を言い返せばいいのか、すぐには言葉が出てこなかった。
そのときだった。
扉が開く音がした。
田中康介の姿が、扉口に現れる。
渡辺莉々を病院へ連れて行き、簡単な検査を受けさせて戻ってきたところだった。そしてちょうど、渡辺美咲のその言葉を聞いたのだ。
一瞬、自分の耳がおかしくなったのかと思った。
田中康介は足を止め、眉間をきつく寄せる。
視線はまっすぐ渡辺美咲に向けられていた。口を開いた声には、ほんのわずかに張り詰めたものが混じる。
「……今、何て言った」
