第6章 まだ私に怒ってるの?
渡辺美咲は田中康介を見た。瞳の底に、情も波もない。まるで取るに足らない事実を口にするだけのように。
「別に」
今この瞬間、田中康介と余計な揉め事を増やしたくない。ただ一秒でも早く、この息苦しい場所から逃げ出したかった。
言い終えると、美咲は踵を返し、足早に階段を上がる。背中に突き刺さる田中康介と田中母の視線を、階段の曲がり角で切り捨てるように。
田中康介はその後ろ姿を見送り、眉間の皺を深くした。理由の分からない苛立ちが、胸の奥にじわりと広がる。
――今回の美咲は、どこか違う。
いつもの彼女なら泣いて喚いて、縋りついて、ヒステリックに問い詰めた。だが今日は静かすぎる。静かすぎて、逆に落ち着かない。
田中母が隣へ来て、ため息をついた。
「康介、見た? あの子、ほんと最近調子に乗ってるわね。離婚だなんて……田中家を出て、まともに暮らしていけると思ってるのかしら」
田中康介は眉間を揉み、手を振った。
「母さん、もういい。疲れた」
美咲の言葉を深く追わず、彼はそのままリビングへ向かった。
どうせいつもの、売り言葉だ。散々騒いだあと、結局はこの家に残る――そう信じていた。
美咲は何年も自分を好きで、健人という子どももいる。そんな女が、本当に離れられるはずがない。
田中健人は腕にギプスをはめられ、家で過ごすことになった。
美咲は相変わらず食事を作り、身の回りを整えた。だが、こちらから言葉を投げることは一度もない。
健人を見る目も淡い。温度がない。
それが、健人の胸を妙にざわつかせた。
夜。薬を替え終えた美咲が部屋を出ようとしたとき、健人が服の裾をつかんだ。
「ママ……まだ怒ってるの?」
怯えた声。その奥に、かすかな不満と甘えが混じる。
美咲は裾をつかむ小さな手を見下ろし、何も言わず、そっと振りほどいた。
健人の目がみるみる赤くなる。
「わざとじゃないんだ……ただ、パパが怒るのが怖くて。パパと莉々おばさんがケンカしたら嫌で……俺が本当のこと言ったら、パパは莉々おばさんに怒るだろ? そしたら二人、一緒にいられなくなる」
健人にとって渡辺莉々は優しくて、何でも許してくれる人だった。美咲は厳しくて、縛る人。だからこそ、健人は無邪気に信じてしまう。莉々のほうが、父の隣にふさわしいのだと。
美咲の瞳に、薄い嘲りが走った。
「だから? あなたの莉々おばさんとパパを一緒にするためなら、母親にありもしない罪を着せても平気なの?」
低い声。冷えた刃のようだった。
「田中健人。私はあなたの母親よ。産んで育てたのは私」
「ごめんなさい……ママ、許して」
健人は美咲の手に縋りつき、嗚咽まじりに懇願する。
「もう二度としない……怒らないで……お願い」
「どうでもいい」
美咲は静かに手を引き抜いた。声は凪いでいる。
「あなたと田中康介が誰と一緒にいようと、何をしようと、もう私には関係ない」
「口出しもしない。怒りもしない」
その冷たさが、どんな叱り言葉よりも健人を追い詰めた。
「ママ、やめて……!」
健人は崩れるように泣いた。
「俺、悪かった……ママ、俺いらないの? 捨てるの?」
泣き声に引かれるように、扉が開く。
田中康介が入ってきた。泣きじゃくる息子と、感情のない顔の美咲を見て、眉をきつく寄せる。
「渡辺美咲、今度は何だ。健人は怪我してるんだぞ。これ以上不安にさせるな」
康介の頭の中では、答えは一つだった。遊園地の件でまだ怒っていて、息子に当たっている。
美咲は何も説明しない。静かに康介へ視線を向けただけで、部屋を出ようとする。
「待て」
康介が呼び止め、クローゼットから細工の施された箱を取り出して突き出した。
「来週土曜は莉々の誕生日だ。誕生日パーティーをやる。お前も一緒に来い」
美咲は箱を見ただけだった。中身がドレスなのは分かる。だが、今の自分には関係がない。
「行かない。その日は用事がある」
「何の用事だ。莉々の誕生日だぞ。姉として出るべきだ」
康介の声は命令口調に変わる。
「関係を和らげろ。外に恥を晒すな。田中家が揉めてるところなんて見せるな」
他人からの評価。外からの印象。いつもそれ。
「行かないって言った」
美咲は譲らない。
康介が見せる甘さも、二人のやり取りも、見たくない。自分がその背景になるのも。
康介の目が冷える。
「お前に拒否権はない。来週土曜、迎えに来る。必ず来い」
そう言い捨てて、去っていった。
美咲はその背中を見送り、目を細める。
――この男はいつもこう。こちらの気持ちを見ようともしないで、自分の都合だけ押しつける。
そして来週土曜。
美咲は外出するつもりだった。だが玄関先で康介に塞がれ、有無を言わさず腕を引かれた。階段を降ろされ、車に押し込まれる。
車窓の景色が流れていく。美咲の心は、ひたすら冷えたままだった。
莉々の誕生日パーティーは、海城随一の高級ホテル。
会場はロマンティックに飾られ、海城の大物たちが集っている。
康介の後ろを歩いて会場に入った瞬間、美咲は視線の的になった。探る目、面白がる目。美咲と康介に向けられ、そして少し離れた莉々へと移っていく。
莉々は淡いピンクのロングドレス。人の輪の中心で、咲き誇る花のように微笑んでいた。
康介は入場するなり美咲の手を離し、足早に莉々のもとへ行く。彼女のグラスを受け取り、柔らかい声で告げた。
「莉々、誕生日おめでとう」
莉々は頬を染め、はにかむように礼を言う。
そのまま康介は赤い宝石箱を取り出した。
