第4章
湿り気を含んだ空気に、生ゴミのツンとした臭いが混じる。思わず眉が寄った。
あの漆黒の瞳に宿る殺気は、少しも薄れていない。何かを測るみたいに、静かに思案している。
動けなかった。相手の視線に、たださらされる。
体感で一分近く。抗いようのない圧が、ようやく少しだけ引いた。
骨ばった大きな手が私の腕をつかみ、その力に引かれるまま、ゴミの山から立ち上がる。
月明かりが銀色の仮面に落ちた。神秘的で――危険。
「いくら欲しい」
「要りません」
男は不快そうに服の埃を払う。私はつい、ゴミの山へ目をやってしまい――なぜだか、妙に後ろめたくなった。
その答えが気に入らなかったのか、男がこちらを見た。黒い瞳に侮蔑がちらつく。
「わざとここで待ち伏せしてたんじゃないのか」
耳に心地いい声なのに、吐き出される言葉は氷みたいに冷たい。私はこぶしを握りしめた。
「できることなら、こんな目に遭いたくありませんでした」
目の前の男は、一ノ瀬家の人間。
その一ノ瀬家を追い回す連中が、ただ者なはずもない。
普通の人間の私が、こんな世界に近づいていいわけがない。
腹の子のために、一度だけ賭けると決めたから首を突っ込んだだけ。そうでなければ、理性で距離を取っていた。
男は明らかに二秒ほど固まった。――本当に金を要求しないとは、思っていなかったのだろう。
少し離れた場所から、また足音がした。
見つかった……?
一気に背中が強張る。
「心配するな。俺の部下だ」
男の声が、わずかに柔らかくなる。
私は迷ってから、男のネクタイをつかんで引き寄せた。距離を詰め、低く囁く。
「助けたのは、一ノ瀬家と縁があるから。でも忘れないで。私は、あなたの命の恩人よ」
言い終えるなり手を放し、反応を見ることもなく、足早に反対方向へ歩き出す。
男の身の安全が確保できたなら、私がここに残る理由はない。
ただ――この男が、私の助けになってくれることを願うだけ。
背後の視線が、私の背中に刺さるように張りついていたことに、気づかないふりをした。私が闇に消える、その瞬間まで。
神谷家に戻る。
靴を履き替えたところで、二つの影が前後から道を塞いだ。
顔を上げると、真っ赤に怒りをこらえた顔が二つ。
神谷雅子が手を振り上げる。
「料理に細工したのはあんたでしょう!」
私は素早く下がり、振り下ろされる前にその腕をつかんで、力任せに払いのけた。
「言うなら証拠を出して。白石萌が体が弱かっただけかもしれないでしょう。決めつけは名誉毀損よ」
私が神谷陸の婚約者なのに、神谷雅子――未来の姑は、公の場で白石萌を異様なほどかばう。
私がこの家でどんな立場か、わざわざ見せつけるみたいに。
百歩譲って言うなら、神谷雅子が白石萌にあんなに肩入れさえしなければ、今日の騒ぎだって起きなかった。
神谷沙織が母親を支え、怒りをむき出しにする。
「料理に何か入れたのは確かよ! この家でそんな陰湿なことするの、あんた以外に誰がいるの? 相沢美月! 兄に甘やかされてるからって、好き勝手するつもり!?」
背後には使用人が一列に並び、みんな俯いたままこちらを見ようともしない。
神谷雅子は息を整えると、勝ち誇ったように言い放つ。
「悪いことをしたら罰を受けるのが当然。陸がいたって、これ以上あんたをかばわせないわ。相沢美月、あそこに跪きなさい!」
執事が近づき、手にした戒尺を神谷雅子に差し出す。
雅子はそれを手の中で弄び、憎悪の目で私を睨む。今にも叩きつけそうな勢い。
母娘と違い、私だけが妙に落ち着いていた。
二人の横をすり抜け、そのまま階段へ向かう。視線すらくれない。
無視された神谷雅子は、腹の底から怒りを噴き上げたのだろう。
「保姆、押さえなさい!」
二人の家政婦が左右から迫るが、本気で私に触れる勇気はない。
我慢の糸が切れた。私は振り返り、冷えた声で言う。
「証拠。さっきからそれだけ言ってる。私が細工したところを見たの? 見てないなら、勝手に断罪しないで」
神谷沙織が鼻で笑う。
「じゃあ誰なのよ? 時間稼ぎしてるだけでしょ。言っとくけど、兄は今日は残業よ。前みたいに助けに来ないから!」
「おとなしく跪いて罰を受ければ、これで終わるの」
私は横に立つ警備員へ視線を向け、はっきり言った。
「防犯カメラ、ありますよね。映像を見れば済む話じゃないですか」
「防犯カメラ」という言葉に、空気が一気に沈む。
数人の顔色が目に見えて曇った。
神谷雅子が戒尺を握ったまま詰め寄り、怒気を膨らませる。
「カメラなんて、もうないわよ! つまりあんたに決まってる!」
「そこまで」
私は家政婦の肩を押して間に入り、神谷雅子を止めた。
「証拠なしは誹謗中傷。まだ続けるなら、今ここで警察を呼びます」
スマホを取り出し、氷みたいな目で見返す。
「誰にハッタリかましてるの! 神谷家に入るなら、神谷家の規則に従いなさい!」
神谷雅子は怯むどころか、さらに二歩踏み込んできた。
私は目を細め、わざとらしく言葉の端を尖らせた。
「私、まだ正式に入ってませんけど?」
神谷沙織が口を挟もうとする。私は即座に叱りつけた。
「あなたも。何も分かってないバカは黙って」
「……っ! 私を、バカって!」
神谷沙織の目に涙が浮かぶ。
私は取り合わず、踵を返して階段を上がった。
かつて神谷陸と仲が良かった頃は、未来の夫の妹として沙織をそれなりに大事にしてきた。
返ってきたのは見下しと裏切り。もう二度と、飲み込まない。
深夜。
神谷陸が音もなく部屋に入ってくる。私は背を向けて横になり、気づかないふりをした。
今の神谷陸に触れられるだけで吐き気がする。どうにかして距離を取らないと。
ベッドの反対側が沈み、神谷陸が背中にぴたりと寄り添う。後ろから抱き締めてきた。
「母さんと喧嘩したって聞いたけど?」
私はこみ上げる嫌悪を飲み込み、表情も声も整える。
「してないよ」
喧嘩? 一方的に私が責められただけだ。
あの三人は同じ側。神谷陸だって、内心では私を疑っているに決まっている。
「そっか」
神谷陸が顔を寄せ、頬に口づけしようとした瞬間。私は自然な動きで身をひねり、すり抜けた。
神谷陸の腕が離れる。
「宴で萌がちょっと恥をかいただろ。母さん、あの養女を可愛がってるから、ついカッとなったんだ」
「母親は、私と何で『喧嘩した』って言ってたの?」
私は澄ました声で尋ねる。神谷陸の視線が、わずかに泳いだ。
こんなに直球で来るとは思っていなかった顔。
「白石萌がみんなの前で恥をかいたの、私が仕組んだと思ってるの?」
神谷陸は慌てて手を振った。
「違う違う。美月がそんなことするわけないだろ。萌はもともと体が弱いし、母さんも大げさなんだよ」
その優しげな表情。正体を知らなければ、私だって信じかけただろう。
――むしろ感心する。白石萌を救うために私の骨髄が欲しいからって、ここまで演じられるなんて。
「もう遅いし、寝よう。な? 美月」
男がまた近づき、耳元に息を吹きかける。甘い含みを持った、いやらしい熱。
胃の中がぐらりと揺れた。吐きそうになる寸前、私は彼を押しやり、小さな腹に手を当てて、いかにも傷ついたふうに言った。
「私、妊娠してるの。だから……しばらく別々に寝よう?」
