第5章
神谷陸は眉間にしわを寄せ、視線を私の下腹に落とした。欲を滲ませた目の奥で、何かを必死に押し殺している。
それから、少しぎこちない笑みを無理やり作る。
「もちろんだよ。それはそうするべきだろ。お前、妊娠してるんだから」
そう言いながら、神谷陸は服の裾を整え、自分の枕を抱えてソファへ目をやった。
「ちゃんと休めよ。しっかり体を整えるんだ。お前には触らない」
私は心の中で冷たく笑った。なのに、胸の奥は不意にちくりと痛む。
神谷陸は、私を愛していない。
私と肌を重ねるのだって、ただ自分の生理的な欲求を満たすため。それだけだ。
妊娠が分かったとき、あんなにも嬉しかったのに。
やっと二人の愛の証ができたのだと、本気で信じていた。
今となっては心の底から思う。
お腹の子が、神谷陸の子じゃなくて本当によかった――と。
部屋の灯りが落ちる。
私は布団をぎゅっと引き寄せ、思わず体を丸めた。
神谷陸の本性を知ってしまった今、このベッドはもう安らぎをくれる場所じゃない。
部屋の外では――
神谷沙織が廊下の曲がり角に身を潜め、寝室の様子をしきりに窺っていた。不満げに口を尖らせる。
「お母さん、中、全然物音しないんだけど。お兄ちゃん、またあの女の肩持ってるんじゃないの?」
神谷雅子は腰に手を当て、ふんと鼻を鳴らした。
「まだ嫁入り前だっていうのに、あの態度。しかも私にまであんな顔をするなんて」
神谷沙織は奥歯を噛みしめる。
「お母さん、相沢美月にあんなふうにやられて、このままで済ませるわけないでしょ。あの一発、絶対に自分の手でやり返してやるんだから」
翌朝。早朝。
目を覚ましたとき、神谷陸はもう部屋にいなかった。
うつらうつらしていたとき、たしか電話している声が聞こえた気がする。
あんなに優しくて、甘やかすような口調、私は今まで一度も向けられたことがない。
誰への電話かなんて、考えるまでもない。
きっと白石萌のところへ行ったのだ。
身支度を整えて食堂へ向かう。
けれど、そのことはもうさほど気にならなかった。
「お義姉さん、今日はずいぶん早いんですねぇ」
食堂に入った途端、妙に媚びた甘ったるい声が耳に入った。
聞き覚えのある声色に顔を上げると、ダイニングテーブルのそばに立つ神谷沙織が、にこにこと笑っていた。
私は一瞬、言葉を失う。思わず眉をひそめた。
あれだけ露骨に私を嫌っていた神谷沙織が、急にこの態度?
何を企んでるの。
「何か用?」
冷えた声で返すと、家政婦が私の朝食を運んできた。
そのとき神谷沙織の目が、私の前に置かれたヨーグルトの器へすっと吸い寄せられる。
私は黙って彼女を見た。
視線を置きすぎたと気づいたのか、神谷沙織は慌てて取り繕う。
「ほら、お兄ちゃんにも仲よくしろって言われたし。私もいろいろ考えたのよ。あなた、これから私の義姉になるんだし、だったらお互いもう少し穏やかにやっていこうかなって。一緒に朝ごはん食べましょ」
そう言って私の腕を取ろうとしたが、私の視線に怯んで手を引っ込めた。代わりに椅子を引いて、わざわざ私の隣に座る。
その笑顔はどう見ても引きつっていた。
何より、視線が分かりやすすぎる。
神谷沙織は何度も何度も、私の朝食へ目を走らせていた。
私がスプーンを持ち上げると、彼女の目がぱっと輝く。期待が露骨に濃くなる。
――やっぱり。
私はふっと手を止めた。
「急に食欲なくなったわ。あなたが食べたら?」
そう言ってスプーンを置く。
かちん、と乾いた音が鳴った瞬間、神谷沙織の顔がこわばる。
「な、何で? これ、私がちゃんとお詫びのつもりで用意した朝食なのに。どうして食べないのよ?」
「あなたが?」
私は露骨に軽蔑を滲ませ、上から下まで眺めた。
「朝から笑わせに来たの?」
昨日はあれほど威勢よく、私が料理に薬を盛っただの何だの騒いでいたくせに。
たった一晩で態度を百八十度変えて、私に何か食べさせたくて必死になる。
馬鹿じゃない限り分かる。
この朝食に何かあるってことくらい。
「食べないってことは、私と仲よくする気がないってことでしょ。私の義姉になりたいなら、食べなきゃだめよ」
神谷沙織の口調は、焦るほど強くなる。
けれど私はぴくりとも動かなかった。
彼女はしびれを切らし、スプーンを手に取って私の口元へ押しつけようとする。
私は顔をそむけて拒んだ。
何度か押し問答を繰り返すうちに、神谷沙織の顔は真っ赤に染まり、声も一段高くなる。
「今すぐ食べて! 今ここで! じゃないとどこにも行かせないから!」
神谷沙織がついに取り繕えなくなったのを見て、私はそのヨーグルトの器を床へ叩きつけた。
ぱりんっ――
神谷沙織はびくっとして二歩ほど後ずさり、そばにいた家政婦も驚いて慌てて片付けに来ようとする。
「神谷沙織、いつまでそんな芝居続けるつもり?」
私は真正面から言い放った。
「この中に何を入れたのか、私がわざわざ口にしてあげないと分からない?」
「な、何言ってるのよ。私が何を入れるっていうの? 言いがかりもいい加減にして!」
神谷沙織は目に見えて動揺し、言葉がしどろもどろになる。
私は鼻で笑った。
「その程度の小細工で私を嵌められると思ったの? 鏡見て出直してきたら?」
「な、何よ、それ……」
「間抜け面だって言ってるの」
「……っ、あんた!」
今にも飛びかかってきそうな勢いで、神谷沙織が私を睨みつける。
怒りで胸が大きく上下していた。
「警告しておくわ。くだらない真似はもうやめなさい。私を本気で怒らせたらどうなるか、分かってる?」
これ以上相手をする気はなかった。
言うだけ言って、私はその場を後にする。
背後では金切り声が上がり、何かを叩きつける音が次々に響いた。
神谷沙織が癇癪を起こしているのだ。
私はこみ上げる笑いを抑えきれないまま、朝のうちに予約しておいた配車サービスの車に乗り込んだ。
向かった先は、セントラルカフェ。
席について間もなく、親友の藤井千晴が慌ただしく駆け込んできて、いきなり私の手をぎゅっと掴んだ。
「ほんと!? 美月、わざわざ呼び出したってことは、起業の話してくれるの!?」
藤井千晴は私の隣にどかっと腰を下ろし、目をきらきら輝かせている。
「うん……」
そこまで期待に満ちた顔をされると、かえって少し言い出しにくくなった。
神谷陸と大恋愛みたいなことになる前から、私と藤井千晴は大学時代に一緒に会社を立ち上げようと決めていた。
あの頃はまだ相沢家も没落していなくて、私たちの会社も勢いよく成長していた。
でもその後、私は神谷陸のことと、彼の仕事を支えることにほとんどの力を注ぎ込んでしまった。
自分の会社には、ろくに目も向けなくなった。
私たちの会社は、それまでに築いた人脈や資源でどうにか細々と生き残ってはいた。
けれど、そこから先へ進むことはなかった。
「美月、はっきり言うけど、あんた結婚とか向いてないのよ。やっぱり私と一緒にビジネスの世界走り回ってるほうが似合うって。覚えてる? あんたが引っ張ってた頃、うちの会社がどれだけ注目されて、どれだけ出資を呼び込んだか」
藤井千晴は、少し羨むような目で私を見た。
私は視線を落とし、その手を握り返す。
胸の奥がじわりと痛んだ。
神谷陸なんて男にのめり込んだせいで、私はずっとそばにいて、見捨てず支えてくれた親友のことをないがしろにしていた。
本当に、何かに取り憑かれていたみたいだ。
「千晴、ひとつ秘密を教える」
私は身を寄せ、彼女の耳元で一語ずつ囁いた。
「私、神谷陸とは結婚しない。神谷家から抜けるには少し時間がかかるけど、必ずあの男から離れる」
藤井千晴はぽかんと口を開け、信じられないという顔で私を見つめた。
次の瞬間、その表情が一気に弾ける。
「えっ、ほんと!? 美月、本気で言ってる!?」
「本気よ」
藤井千晴は勢いよく私に抱きついた。
「よかった! 会社でいつでも待ってるからね、戻ってくるの!」
そのぬくもりに包まれて、私はようやく心から笑えた気がした。
神谷陸に裏切られてから、ちゃんと笑うことなんてほとんどできなかった。
この世にもう家族はいないからこそ、私は神谷陸をあまりにも大きな存在にしてしまっていたのだ。
でも、今なら分かる。
私のそばには最初から、ちゃんと私を大事に思ってくれる人がいた。
藤井千晴と昼までべったり過ごしていると、何の前触れもなく神谷陸から電話がかかってきた。
「美月、今どこだ? こっちで迎えを出す。妊婦健診に行くぞ」
