第6章
本能では断りたかった。けれど、神谷陸の声色は珍しく柔らかい。
二秒ほど考えてから、私は短く応じた。
「いいよ。場所、送るね」
神谷陸は、本当に愛している相手を救うために私の骨髄を欲している。
そのために私の身体を万全に保てとも言った。
少なくとも、今この段階で露骨に私を傷つけることはしない――そう思っていた。
危険を避けるだけなら、隙を見て逃げるのがいちばん賢い。
それでも、私は逃げたくなかった。
神谷陸の思いどおりに事が運ばず、計画が崩れ落ちるその瞬間を、この目で見たい。
そして、そのせいで彼が取り返しのつかない苦しみを味わうところを。
だから私は、従うふりをすることにした。
病院に着くと、神谷陸は私の姿を見つけるなり、すぐに歩み寄ってきた。
そのまま私の手をつかみ、強引に検査室へ向かおうとする。
「ちょっと、ゆっくり歩いて。今はそんなに早く歩けないの」
振りほどこうとしたのに、指は逆にきつく絡め取られた。
神谷陸は私をじっと見下ろし、低く言う。
「ゆっくりなんてしてられない。君の検査、早く済ませたいんだ」
その切迫した口調に、胸の奥で警鐘がけたたましく鳴った。
妊婦健診だとしても、神谷陸がここまで焦るはずがない。
私の知らない何かが、ある――?
神谷陸は私を一人の医師の前まで連れていくと、念を押すように言った。
「先生、彼女の身体は徹底的に診てください。絶対にミスは許されません」
それだけ言い残し、彼は足早に外へ出ていった。
残された私と医師は、互いに顔を見合わせる。
私はとっさに思いつき、口を開いた。
「少しお腹の調子が悪くて……先にお手洗いに行ってもいいですか」
医師は特に怪しむ様子もなく、トイレの場所を指さした。
「検査の準備に少し時間がかかります。10分後に始めますが、大丈夫ですか」
「はい。10分後に戻ります」
部屋を出る。
廊下は妙に静かだった。
いや、静かすぎる。
人払いされたみたいに、がらんとしている。
私は足を緩め、周囲を探るように見回した。
神谷陸がどこへ行ったのか、見つけたかった。
あんなふうに私を置いて、慌てて立ち去るなんて。
どう考えても、きな臭い。
「萌!」
不意に、前方の一室から男の声が響いた。
私はぴたりと足を止める。
どの部屋か、すぐにわかった。
藪をつついて蛇を出すわけにはいかない。
壁伝いに気配を殺し、そっと近づく。
きちんと閉まりきっていない扉の隙間から、会話が漏れてきた。
白石萌の声は弱々しく、今にも消え入りそうだった。
「陸……私、すごくつらいの。もうすぐ死んじゃうのかな……」
「そんなことあるわけない」
神谷陸が即座に否定する。
「縁起でもないこと言うな。俺が助ける。相沢美月と付き合ったのだって、全部お前を助けるためだ。だから諦めるな。すぐに助けてやる」
その一言で、血の気が引いた。
――相沢美月と付き合ったのは、お前を助けるため。
白石萌は涙混じりの声で続ける。
「でも……相沢さんが本当に承諾してくれるの? 私、無理やりなんてしたくない……」
白々しい。
吐き気がこみ上げるほど、見事な芝居だ。
「承諾なんか必要ない!」
神谷陸の声が急に鋭くなった。
「今日、こいつから骨髄を抜く」
「で、でも……今の相沢さん、身体がかなり弱ってるって……」
「前は、お前を助けるために生かしておく価値があると思ってた。だから命までは取らずにいた」
神谷陸の声は熱に浮かされたみたいだった。
「でも、萌――お前がこんなに苦しんでるのに、もう見ていられない。今すぐあいつの命を使って、お前を助ける」
その場で、私は凍りついた。
耳の奥で、ぶうん、と嫌な耳鳴りがする。
神谷陸の言葉が大槌みたいに胸へ叩きつけられ、全身がじんじん痛んだ。
そういうことだったのか。
白石萌が痛がった。
ただ、それだけで。
だから神谷陸は、私を病院へ連れてきた。
私の命と引き換えに、あの女を救うために。
愛されていないことくらい、とっくにわかっていた。
それでも、あれだけ長いあいだ彼のそばで尽くしてきた私に、ほんの欠片の情すら残っていなかったなんて。
背後で、はっきりと扉の開く音がした。
私は慌てて表情を整え、そのまま何事もなかったように向きを変え、そちらへ歩き出す。
だめだ。
ここで待っていたら、終わる。
絶対に、ここで死ぬわけにはいかない。
ここはVIPエリアだ。
警備の人数は、他のフロアとは比べものにならない。
無闇に逃げ出せば、すぐ確保される。
なら――従順なふりをして、隙を見て逃げるしかない。
「相沢さん、こちらへ。手術です」
医師が手で促した。
私は首をかしげ、わざと不思議そうに問い返す。
「検査じゃないんですか? 手術って、何のことですか」
相手の顔に走った一瞬の動揺を、私は見逃さなかった。
「い、いえ、言い間違いです。検査です。どうぞこちらへ」
そう言って案内されたのは、手術室ではなく普通の個室だった。
医師はベッドを示す。
「横になってください」
私はすぐに、脇のワゴンに置かれた薬品へ目を向けた。
麻酔薬。
ぞっとした。
先に麻酔を打つつもりなんだ。
眠らせて、そのまま手術室へ運ぶつもりだ。
医師は私に見られないよう配慮したのか、わざわざ背を向けて準備を始める。
私はそのうなじを見つめた。
手のひらが、じっとり汗ばむ。
警戒を解かせるためか、この部屋にいるのは医師一人だけ。
今なら、まだ勝ち目がある。
ここで躊躇したら終わりだ。
本当に麻酔を打たれたら、もう何もできない。
視線を走らせても、武器になりそうなものは見当たらない。
私は最後にスマホをぎゅっと握りしめ、そのまま全力で医師へ投げつけた。
鈍い音。
医師がうめき声を漏らし、手にしていた注射器が床へ落ちる。
私はすぐにそれを拾い上げ、反対に医師の腕へ突き立てた。
「な、何を……っ」
医師は顔を引きつらせ、しどろもどろになる。
私はネクタイを乱暴につかみ、真正面から睨み据えた。
「自分が何をしようとしてるか、わかってる? これは犯罪だよ」
「死にたくなかったら、ここで大人しくしてて。声を上げたら容赦しない」
追い詰められた人間は、時に自分の命さえ顧みない。
まして今は、本当に私の命を奪おうとしている人間がいる。
気圧されたのか、医師は注射を打たれたまま、青ざめて口をつぐんだ。
私は一秒も無駄にせず、部屋を飛び出した。
立ち止まる余裕なんてない。
手術室の前をかすめたとき、案の定、中にも外にも複数の人影が見えた。
背筋が冷える。
私はさらに速度を上げる。
けれど、すぐに異変に気づいた。
エレベーターが見つからない。
来た道を戻っているつもりなのに、見覚えのある場所へ出ない。
廊下は入り組み、部屋の配置も複雑で、まるで迷路みたいだった。
そのとき――背後から怒声が上がる。
私は歯を食いしばり、咄嗟に脇の、明らかに出口ではなさそうな区画へ方向を変えた。
神谷陸に気づかれた。
早く逃げないと、連れ戻される。
胸を掻きむしられるような焦りに突き動かされ、私はただ足を動かし続けた。
後ろから聞こえる呼び声も足音も、どんどん増えていく気がする。
追い詰められた私は、手近な扉を勢いよく押し開け、その中へ滑り込んだ。
ほとんど同時に、廊下の外で声がぶつかり合う。
「止まりなさい! あなたたち誰ですか! ここへは勝手に入れません!」
看護師の声だった。
私は胸元を押さえる。
心臓が喉元まで跳ね上がりそうだ。
そして次の瞬間。
ゆっくり顔を上げた私は、一対のひどく見覚えのある瞳とぶつかった。
空気が、凍った気がした。
病室の大きなベッドの上。
男が一人、背筋を伸ばして座っている。
病衣さえ洒落た服みたいに着こなし、手には一冊の本。
午後の陽射しがその人の肩先にやわらかく降りそそぎ、まるで玉のように端正な輪郭を淡く照らしていた。
彫りの深い顔立ち。
唇には、あるかないかほどの微笑。
そして何より、こちらを見つめるその目が、忘れようもなく印象に残っている。
私はほとんど反射的に、その男が誰なのか悟った。
――あのとき、闇市で出会った。
一ノ瀬家の人だ。
廊下の向こうから、神谷陸の声が聞こえる。
「人を探しているんです。うちの患者が逃げ出して、この辺りへ来たはずで」
私は唇を噛み、迷う暇もなくベッドのそばへ駆け寄った。
男が何か言うより早く、その口を手で塞ぐ。
消毒液の匂いはしなかった。
代わりに、ほのかに雪松の香りがした。
それだけで、張り詰めていた心が少しだけ静まる。
男は眉をひそめ、私の手を見下ろす。
その目に、わずかな驚きが走った。
私は彼を見つめ、低く囁く。
「助けて」
